2017.02.26

タイムマシンは陰暦クリスマスを超えて・・・の巻

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  ネコのこういう後ろ姿がたまらんо(^ヮ^)о

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  ココロが和むその典型о(^ヮ^)о

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  まっ、ウチのちょびのほうがハンサムですがねо(^ヮ^)о

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  でまぁ、本来ならばココでしゅぽ(슈퍼)だのくむじ(금지)だのの巻になるハズなのだが、今回の大韓散歩はこれといって新しい町に出くわしたワケでもなく、ゆえにそのあたりのネタがナシモフ。でも、ちょこっとだけ雑ネタを……。

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  このちょび柄のネコって、身体はやや茶色がかったシマシマなのに、なぜかシッポが完全なモノクロであることが多い。SFの名作『夏への扉』(ロバートAハインライン)の早川文庫版の表紙もこのテの柄で、なにがいいかっていうとうしろ頭のシマシマにグっとくるのである(大韓でドラマ化してくれないかねぇ?)。作中のネコ「ピート」がこの柄かどうかはわからないが、主人公とピートとが“オス同士”のよき相棒であったように、オスネコってのはたしかに相棒感がメスネコよりも強いように思えてならない。長年ネコと暮らしてきてそう実感するのだが、このネコからもそんな印象を受けた。

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  以上、咸悦駅前でのひとときでありMASITA。

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  刑務所セットにもネコアリラン。

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  豚足屋にブタアリラン。

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  おっとコブラ♪

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  大韓でちょっとした(いやかなり?)騒ぎになっているその主役の面々。個人的に面白いと思ったのは某サムスン電子の副会長であった(最前)。ちょうど最初の“逮捕”の日と渡韓とが重なったこともあって、テレビニュースで連行されている同じ映像が繰り返し繰り返し流されていたが、御仁の表情が、なんというか大韓ドラマに出てくる財閥などカネ持ちの御曹子そのものという態なんですよ。かなりうつろな状態にも見えたが、その後に一旦釈放されたことといい(再び拘束されたが)、ドラマの世界そのまんま。ドラマはあくまでフィクションのエンタテイメントではあるけれど、そこには庶民感情的な視点がリアルに生かされているのだなァ……との感想を持った。

  それはそれとして、大韓のテレビには通信社系のニュース専門チャンネルが複数あるが、滞在中にその「主要ニュース」の内容にこれといった変化がなかったのはどういうワケなのだろう。大事なニュースはともかく(ほとんど同じ映像ではとも思うが)、その陰で葬られたできごとがどれだけあったのだろうかとの疑念がわいてならないのだ。もっとも、日本の、それもとりわけ大NHKを筆頭とするテレビ局の自称「ニュース番組」の類もそれと大差がないと思わざるをえないのだが(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)
  諸外国におけるいわゆる“反日感情”(含・勘定)。それぞれをひとくくりにすることはできないにせよ、そのなかには国内問題の目くらましとして利用されているのではないかと勘ぐりたくなるケースも少なくはない(ここでの深入りは避けるが)。とすると、たとえば大NHKの自称「ニュース番組」の多くが、そのトップで連日のようにアメリカ合州国大統領の話題だの北朝鮮によるテロ事件だの大韓大統領関連だのをまくしたてているその真意が見えてくるような気がしてならないのだ。もちろんそうしたことを報じることも大切ではあるけれど、もっともっと報じるべき国内諸問題があるハズなのだが……。

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  おっと、成人用品店。いちど中味を拝んでみたいと思いつつも、いまだに扉を開ける度胸がない(笑)。別段、なにがあるってワケでもないのでしょうがね。

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  ときはソルラル(旧正月)前。

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  前日には、ココに「メリークリスマス」!  時間が遅かったのか、しばらく待ってみてもこのままになってしまっていたが。
  一般に「タイムマシン」(前段の『夏への扉』にも登場)っていうのは、数十年やらややもすると数百年あるいは億単位の年数を飛び越えてしまう話が多いが、それがたった1秒だの数日だのひと月だのであっても立派な時間旅行じゃないか。ふとそんなことが思い浮かんだ旧正月直前のクリスマス模様でありMASITA。で、堤川から汽車に乗って清凉里駅に着いてみれば……。

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  タイトル「時間旅行」(だったかな?)なんてオブジェが待っていた。

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  帰国の朝。帰る日にわっざわざ降るもんかねぇ……。

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  空港に向かうわずかなひとときではあったが、雪鑑賞。

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  仁川空港ラウンジ。

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  降り続く雪。そのせいかどうか、3時間遅れでのフライトとなった。ラウンジで寛いでいても遅れのアナウンスがあるでもなし、乗り遅れても困るので、定時の搭乗開始時間あたりから搭乗口前で延々と(乗り込んでからさらに1時間)待たされるハメになった。
  コレには後日談があるので、また次回に。

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2016.02.26

やっとこさ、浦項(前編)...の巻

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  朝の東大邱駅。これから乗るのは、東海線の暫定終着駅・浦項である。昨年4月2日に開業したので、折をみての試乗を予定していた。ところがなんだかんだで延び延びとなってしまい、やっとこさの邂逅を迎えた次第。浦項が暫定終着駅だというのは、今後の延伸が予定されているから。日本海ぞいに蔚珍を経由して三陟まで至る「東海中部線」として2019年をメドに開業を目指しているというが、そうなればまた楽しみがひとつ増えるというワケで、あらためて繰り出すことになる。もっとも、高架直線ばかりでトンネルのオンパレードでは……という気もするのだが。国内外を問わず、鉄道新線の開業は楽しみではあるけれど、乗ったときの楽しさはますます期待薄になってゆくような気がしてならない。

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  ソウルを早朝に出発した浦項ゆきと晋州ゆきKTXはココで切り離される。

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  第2世代の「KTX山川」なので、アコモはそれなりに改善されている。もとより、この列車を選んだのはそういう事情もあったワケだが、KORAILサイトのィ予約ページを検索してみると、便の多い京釜線KTX(ソウル〜釜山)では当然のように「KTX山川」の便から売り切れ傾向。それもかなりあからさま。しかし、第1世代KTXのあの粗末極まるアコモと第2世代以降のそれとの乗り比べをいちどでも体験してしまえば、むしろそうなってあたりまえ。それほど接客レベルに差があるるのだから困ったものだ。

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  車窓はいくらか雪景色о(^ヮ^)о

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  わずか35分で浦項に到着。東大邱〜浦項間は82.8kmなので、表定速度は141.9km/h。運賃は1万900ウォン(週末運賃)である。高速鉄道としてはけっして速いとはいえないが、同じ区間を並行する大邱〜中央〜東海南部線経由の「ムグンファ号」だと1時間50分以上かかり運賃は7200ウォン。3700ウォン差で1時間15分も短縮してしまうのだから、案外良心的なのではないだろうか?

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  浦項駅前は想像どおりのツラ構えであった……。

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  ホームは2面4線で、KTX用(東大邱、ソウル、仁川国際空港方面ゆき)とムグンファ用(東大邱、慶州、釜田、順天方面ゆき)にわけられている。ところが、前者は5・6番線、後者は7・8番線であり、どうやらさらに2面4線ぶん(少なく見積もってだが)を増やす算段らしいのだ。ご覧のとおり敷地は豊富にあるけれど、資金と収入(利用者数)には限りはあるのではアルマイトの弁当箱?  三陟延伸にさいしても、このままで十分なような気がするのはオレだけではないだろうねぇ……。

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  駅舎は立派。案外利用者は多く、最近訪れたKTX新駅(公州と五松)などと比べると雲泥の差といっていいほどの賑わいであった。コンビニのほかこぢんまりとしたフードコートもあるが、わりと利用されているようにも思える。外は雨。荷物を持っての散策ってのも業腹なので、コインロッカー(指紋認証式、日本語による利用説明アリラン。「中」サイズで3000ウォンだった)に預けて浦項散歩に繰り出す。

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  感心させられたのは駅アクセスである。駅前がバスとタクシー乗り場になっているのはスタンダードだが、バス乗り場や路線の充実度とわかりやすさがこれまで訪れた大韓“荒野駅”のなかでピカイチだったからだ。乗り場では運転手が「どちらへ」と丁寧に案内役を買っているのにも好感が持てた。

  逆に最悪と思しきは慶全線の晋州駅だろう。浦項駅と同様にKTXとムグンファが乗り入れているが、かつて市街地にあったものを荒野に移したはいいが、市街地とを結ぶバス路線が地元民にとってさえ不明瞭。以前、駅から市街地にある市外バスターミナルに行こうとしたら、途中の「乗り換え停留所」とやらで降ろされて、さらに乗り換えバスまで待たされた挙げ句にやっとこさバスターミナルに着いたが、それだけでもうヘトヘトである。しかも、十分な乗継ぎ時間があったハズなのに、1日3本しかない海印寺ゆきバスをすんでのところで逃すところであった。正直なところ、その逆ルート(バスターミナルから晋州駅)をスムースに乗継ぐ自信はありまっせんでスムニダ(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)  これに近いのが公州駅だと言い切るのにはなんらためらいはない。

  KTX駅ではないけれど、ほかの荒野駅(造語だが、文字どおりに市街地や集落から離れた荒野にわっざわざ設えられた新駅をさす。大韓人のあいだでは「幽霊駅」とも呼ばれているらしい)でいえば、長項線の群山駅や長項駅、忠北線の清州駅は完全無欠の失格。清州はバスターミナルも市街地からかなり離れていて不便。ほかの街とのアクセスは、KTX駅でもある五松から路線バスに乗るほうが便利そうだ。「春香伝」で有名な全羅線の南原もややあやうい。ほかにもチラホラ。困ったことではあるが、それもまた面白いといえばいえる・・・のだろうなぁ……。

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  で、浦項駅アクセスに話を戻すと、駅構内やバス乗り場、バス車内には駅経由路線の案内が、乗継ぎ列車時刻入り(コレはバス車内のみ)で掲出されている。やや長距離を走る210番の本数は少なめだが、市街地やバスターミナルなどを結ぶ107、500番は16分ないし20分間隔とフリークエンシーが確保されている。これも公州や晋州などとは比較にならない充実度といえる(210番に乗ったが、ともに本数の多い107番と200番とを市街地の竹島市場などで乗り換えても目的地には行けた)。

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  さらに驚いたのが、のちに鉄道路線となる予定の蔚珍などとを結ぶ市外バスの接続がはかられていることであった。本数はご覧のとおりわずかで、使い勝手からいえば浦項や東大邱、あるいはソウルなどのバスターミナルから直行するほうが便利だが、それでも画期的ともいえそうなサービス改善ではないかと思う。いっそのこと、「蔚珍エクスプレス」とでもして、KTXと一体化した乗車券の予約・発売を導入するのもよさそう。

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  で、こうして繰り出した浦項散策がわりと面白かったので、その話は次回と数回後にアップにするけれど、帰路は比較の意味もあって「ムグンファ号」を利用してみた(当初は、浦項駅と浦項散策をまとめるつもりだったが、浦項駅もまたなにかと書きたいことがあったので2回にわけた次第)。

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  奥のKTXはあの第1世代。

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  その第1世代と並び、この気動車ムグンファのアコモもだいぶ難アリ。リクライニングシートやシートピッチ、天井の荷物置き場についていえば、KTX第1世代よりも上だが(断言)、改造車の宿命か、窓と座席とがあまり合っていないのである。目の前に柱じゃちょとねぇというところだが、この条件はKTX第1世代と一緒(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)  念のためつけくわえておくと、KTX第1世代の一般車(普通車)の座席は方向転換はできないしマトモなリクライニング機構もなし。天井の荷物置き場はアタッシェケース程度がせいぜいで、たいして大きくもないオレ愛用のバックパック(30リットル)すら収めることができなかった。かといって、足下に置くと著しく窮屈。やだねぇ……。

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  KTXの東海線と分かれ、東海南部線を慶州方面に向かう。
  つづくо(^ヮ^)о

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2015.12.28

本年もお世話になりMASITA・・・の巻


  今年もなんだか無駄話に明け暮れたような気もするけれど、無事に本年最後のアップでごぢます。12月の大韓散歩話をちょっと中断して、まずは最近読んだ大韓関連本の紹介などを……。

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  あるときなにげにネット通販で検索したら、その値段から手を出しあぐねていた『韓國原影  桑原史成写真集』(三一書房)が割安でおでましо(^ヮ^)о  さっそく入手してシビレまくった次第。
  内容は、写真家・桑原史成氏が歩んだ韓国現代史。米軍がらみの影や軍事政権下での学生デモなど、生臭い場面が続々と登場してくる(日本における安保法デモは、どれだけ映像として歴史に残されたのだろうか?)。そこにあるのは庶民であり、生臭さとともに躍動感や温もりが全編を貫く。そうしたコマに見入りながら、「なんだってオレはこの世界に惹かれるのだろう……」と自問を繰り返すのみである。

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『鯨とり  対訳シナリオで学ぶ韓国語』(脚本:崔仁浩/編訳注:林原圭吾・白水社)
  こりゃぁ本当に生きた韓国語の教科書だо(^ヮ^)о  読むのにだいぶ時間がかかっているけれど、文法や表現の解説も懇切丁寧でなにかと参考になる。英語など学校などにおける外国語の学習も、こういうのを題材にしたらもっと言語として体感でくるように思うのだけど……。もちろん、題材となった映画「鯨とり」は傑作中の傑作!

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  こちらは韓国関連書籍・雑誌などでおつきあいいただいている康煕奉氏の新刊『宿命の日韓二千年史』(勉誠出版)である。
  いろいろと取り沙汰されているが、じつは現在ほど韓国が日本で関心を集めている時代はないかもしれない。少し前の“韓流ブーム”にせよその後の“嫌韓”にせよ、そのいずれもが関心へと結びついているからだ。オレ自身が大韓散歩に明け暮れているのは、仕事という意味はあるにせよとりたてて大層な目的があるワケではない。いうなればネコの散歩みたいなもので、前後不覚のままふらふらと隣国に舞い降りているというのがその実態。しかし、その根っ子にはかの国とそこで暮らすひとびとや文化などに対する関心があり、それが源泉となって「気になって仕方がない」から大韓散歩へと繰り出しているとこじつけることも可能なのではないかと思う。

  一方で、民族という観点でみれば、その関心やつきあいはそれこそ古代からつながっているのであり、あらためてその歴史をひも解いてみてもいい。本書は、帯にあるとおり「古代から現代まで、二千年の日韓の歴史をわかりやすく」まとめた1冊。そこには、日本に生まれ育った「在日韓国人2世」である著者だからこそできうる視点が、微妙な陰影を伴って網羅されている。日韓の歴史の足跡を訪ね歩くルポという要素もあり、リアルに読者に語りかけてくるだろう。“現代史”のひとコマとしての「あとがき」も圧巻である。日韓双方で読んでもらいたい……ふとそう思った。

  ココからはやや蛇足。本書中でも、近代史部分において「創氏改名」というわれわれ日本人にとっても(マトモな感性を持っていれば……だが)あまり耳障りのよくないできごとに触れられている。そのくだり──

<創氏改名を行なわない人に対しては、子供の入学不可、役所での事務受付拒否、公的機関への採用禁止という厳しい罰則が設けられた。>(本書201ページ)

  世間で「マイナンバー」と呼ばれている「国民管理番号」(個人的にはほかに「ユアナンバー」と呼んでいるが)を思い浮かべた。義務教育のある現代ニッポンが「子供の入学不可」なんてないだろうと思うかもしれないが、平気の平さで憲法をないがしろにする連中が権力の中枢に巣食っていることを忘れてはならない(憲法ってのは、そういう連中を暴走させないためにあるのだがねぇ。改定は可能だが、同時に不可侵でもあるのではないのか?)。いずれ買い物ひとつにも管理番号がまとわりついてくる可能性は否定てきないのではないだろうか。そうなれば、これは祖国為政者が自国民に科した「創氏改名」という見方だってできるかもしれない……(韓国のネット通販などで、国民登録番号の類を要求され買い物を断念したひとも少なくないのでは?  言論や結社の自由などをめぐって韓国でも大問題となっているが、ああした点を含め、韓国のそれはわが国にとって他山の石でもある)。

  このほか、軍事政権下にあった1961年から翌年にかけての韓国(おもに政治)を解説した『激動する韓国』(松本博一・岩波新書〜せっかく微妙な時期に長期滞在していながらルポがほとんどないのが残念。庶民の暮らしぶりがほとんど描かれておらず、期待したような内容ではなかった。が〜。韓国や北朝鮮の状況に触れながらも、むしろ当時のわが国の動きやセンスが窺える点は興味深い)や“皇国少年”として育った著者が、ふたつの“祖国”で生き抜いてきたその半生を語った『朝鮮と日本に生きる──済州島から猪飼野へ』(金時鐘・岩波新書〜こちらは深い作品)などと出会った。


  話かわりますけど。年末の休息時間はひさびさに「その夏の台風(그 여름의 태풍」でひとときを過ごす。個人的には大韓ドラマの最高傑作ではないかと思っているのだが、あらためてみるとやはりいい作品だ。
  音楽もいい。なかでもこの「Memory」はお気に入りの1曲。「その夏の〜」ではあるけれど、冬の暖のなかで聞くのもまたオツなのだ。




「その夏の台風」は夭折してしまったチョンダビンとあのハンイェスルとが競演している。そのいぇすらの最高傑作はあのふぁんこ(ファンタスティックカップル=환상의 커플)でキマリだとは思うが、「クリスマスに雪は降るの?(크리스마스에 눈이 올까요?)」で彼女が演じた“ふつうの女の子”も個人的には「主演女優賞」である。いぇすら唯一の“フツーのメロドラマ”だし。
  ただ、このドラマのストーリーや脚本にはちょっと暗すぎて疲労感も……。一方で音楽は素晴らしく、いまでもサントラ盤CDを仕事のBGMにしていたりもする。ところが、ドラマ中にたびたび流れている歌で、なぜか収録されていないのがひとつある。美しいメロディーとハーモニー。しかもかなりの美形だ。しかし曲の正体もわからないのでは音源の探しようもなく、長いことモンモンとしていたのであった。が〜。歌詞にある「사랑이 있을까=愛はあるのだろうか?)」というフレーズにあるとき「ピンッ!」ときてさっそく検索。するとあっさりとその正体がわかったのでありMASITA(動画はドラマとは関係ありません)。



  ↓曲もいいけど、いぇすらがきゃわゆすぎる……(こっちはクリ雪)




  ところで、大韓散歩のさいにはさりげにテレビ番組ネタをチェックするのも楽しみのひとつ(日本ではほとんどテレビを見ないし……)。で、12月の巻に遭遇したのが、米国アニメ「おっはよー! アンクル・グランパ(邦題)」だ。
  なんつうか、あの特殊漫画家・根本敬画伯の世界が大平洋を渡ったというか、でなければ妙なクスリでもかっくらった状態でつくったがごとしのとんでもアニメ(褒め言葉だYO)。なりゆきまかせの動画もナイスだが、もっともウケたのが画面にときおり現われる実写状のトラだ。内容がさっぱり理解できないママ、トラが出てくるたびに腹を抱えて大爆笑させられてしまいMASITA。

  帰国してさっそく正体を確かめると、「Giant realistic flying tiger」なんてなこれまたイカれた名前であることが判明(驚くべきことに、グーグルに「Giant real」まで入力すると、予測なんちゃらで「Giant realistic flying tiger」が筆頭にお出ましになった・笑)。ふと「The original intelligent  sensational Destroyer(ザ・デストロイヤーのことだYO)」を思い浮かべたけれど、これじゃウチのちょびを「シマシマでシッポが長い甘えん坊の巨大ネコ」にでもしなければならないではないか。ちなみに、公式サイト紹介によればこのトラ、「イケメンバンド好き」の「女の子」だそうだ(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)




  一方、大韓ドメスティック番組ではコレだろうねぇ……。

  トロット専門局(?)「inet」で遭遇した「イチョルミンのシアワセ歌教室(이철민의행복노래교실)」である。内容は以下の動画そのまんま。画質も音質もこんなものである。正体の覚束ない司会のイチョルミンはもとより、会場は“イイ顔”のカオス状態о(^ヮ^)о  こんなのをみてると「ぁあ、そこいらへんのおっとっつぁんやおっかっさんらのカラオケってのも案外イイものなんだなァと思えてウレシくなってくる。地元・千葉テレビの某カラオケ番組が「たいそう豪華な歌謡番組」に思えたりもするのだが……。




  この「inet」、「15周年記念」だかで日本ゆきのクルージングツアーの参加者を募っていた。コースはふたつ。「山口&北九州コース」(アベとアソーか……ケッ!)と「大阪コース」が組まれ、名も知れぬようなトロット歌手によるコンサートなんかもプログラムに含まれていたりする。前者は39万9000ウォン、後者は29万9000ウォン。ふと「こんなのに便乗して大韓風味を味わいつくすのもええなぁ……」と思ったもんだ。このCMを目撃したのが12月10日のィ夜。ところが、後者の出発は1週間を切った12月15・17日。前者にしても12月19・20日が出発という慌ただしさ。さすがに「絶賛発売中」とは謳っていなかったが、これはもう在庫処分市の心境だったのではアルマイトの弁当箱?  はたして無事に催行されたのか否か……大きなお世話ですね(笑)。

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  話かわりますけど。クロに首輪をつけてみた。口内炎はやや改善、鼻炎も少しずつよくなっているようだが、相変わらず日中はドロンしてしまうため、いつまで経っても獣医に連れていけないのが悩みの種。18時ごろに帰ってきて朝になると外出。寒くなったせいか、8時すぎまでいることが増えたが、ひょっとすると前世は勤勉なサラリーマンかなにかだったのだろうか(笑)。そんな気さえさせられる規則正しい生活ぶりである。

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  冬の楽しみはちょびとのおねんね。布団のなかがホカホカぬくぬくふわふわシアワセネコベッド(행복한고양이침대)。
  という次第で、本年もお世話になりました。来年もよろしくお願い申し上げますm(__)m

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2015.05.14

停車列車は1日1本(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)・・・の巻

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  大韓ケンチャナヨ散歩2015年5月の陣。どこから話をはじめようかと思案したが、主菜たる京釜線・覚溪駅探訪からスタート。
  旅は3日目。なりゆきのまま前夜をすごした亀尾から6時12分発の「ムグンファ号」にゆられて五十数分、たったひとり降りたオレと入れ代わりに2人も汽車に乗り込んだのにはちょっとだけ驚かされてしまった。降りるさいにホームの狭さにもギョっとさせられたが。

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  だってこの駅、1日に1本しか(1往復にあらず)列車が停まらないというイカしたロケーションだからねぇ……。上段が上り。大田、ソウル方面ゆき(とはいえ停まるのはオレが乗ってきた栄州ゆきただ1本)。下段は下り。「東大邱、釜山、晋州方面」の文字が空しい。もちろん誤植ではありまっせんでスムニダ(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)

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  駅裏。すでに他界した「観光交通時刻表」でも地図上にはきちんとプロットされていたが、いつのころからか本文上からは消滅。コレイルが公式サイトにアップしている表計算仕様の時刻表には駅名こそあるものの、たった1本の停車列車の停車時刻が無視され通過扱いになっているのは単なる誤植ないしケンチャナヨではあろう。試みに1976年9月の「観光交通時刻表」を開いてみると、上下5本ずつ10本もの列車が停車していたことがわかったが、こういう存在を知ってしまえば訪れてみたいと思うのが人情というもの。なんだかんだと先延ばしになりつつ、ほぼ1年越しになってしまったやっとこさの訪問である。
  どうでもいいが、リサイズの作業を不精したら画像が粗すぎ……。まっ、ケンチャナヨ。

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  駅舎(というか待合室)は廃止になってしまった院北駅(慶全線)や日本の大志田駅(山田線)あたりよりも立派なつくり。壁の様子からみて、かつては出札窓口もあったようだ。

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  トイレは懐かし仕様。子どものころ、地元の国鉄駅にもこういうトイレがあったのを思い出す。ただし、個室のほうは封鎖されているので念のため。

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  集落。もちろん(?)しゅぽの1軒すらない……。

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  駅の北側300メートルほどのところに京釜高速線(KTX)の本線と作業基地がある。

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  じっくりとロケハンすればいい撮影ポイントがあるのかもしれないが……。

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  わが同胞の探訪跡か?  ゴミはきちんと持ち帰ってもらいたいものだ。

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  駅前になんとバスが。覚溪からの脱出はもちろん路線バス利用を目論んでいたが、径路は駅の南300メートルほどのところを走っている国道上。このバス停はタウム地図にもないサプライズだが、まだ退散するには早すぎた。

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  じつは、覚溪駅のあとは新たに開業したKTXの東海線(東大邱〜浦項間)を探訪するつもりで計画を立てていた。9時ごろのバスで永洞駅に出て、東大邱で「ムグンファ」から「KTX」に乗り換え、小1時間ほど浦項新駅(コレがまたとんでもなく不便なところにお出まし。浦項市民の不満やいかに?)とその周辺を見学してつぎのポイントへ向かうつもりだったのである。ところが、永洞にゆくバスを待っていると、彼方につぎつぎと汽車が現われては通過してゆくではないか。そんなのを数本。
「もういいっ、浦項は次回だ!」
  という次第で覚溪駅へと取って返す。

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  おっと、横断毛虫о(^ヮ^)о  もとい、ヤツの場合は道路に沿って歩いていたが。

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  時刻表もないので、ボケーっと汽車を待ってはカメラを構えるというのんびりムードではあったが、しかし“キリ”をつけるのがなかなか難しいのが汽車撮影か……などとも思う。“撮りテツ”ではないのだけど、やってみると面白いしо(^ヮ^)о

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  コレは予定していた浦項に向かう前に遭遇した「ITXセマウル」。電車ならではの加速は爽快だが、コレのどこが「セマウル号」なのかさっぱり理解できない失敗作。なんというか、「セマウル号」に対し失礼ってもんですよ。

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  初夏の陽気が心地いい。1年でもっとも好きな季節。

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  それはそれとして。汽車待ちに橋のうえから川面を眺めていたら、どこかで見覚えのある魚がゆらゆら。すでに魚釣りはほとんど止めてしまったオレだが、コレがなんの魚かってことぐらいは瞬時にわかる。しかし「まさかねぇ。いくらおバカさんの類でもこんなとこにまで放流するか?」との疑念も涌いたのだが、ふと足下やら頭上の電線に目をやれば、その“おバカさん”らの置き土産が(どうやればこんなところにひっかけられるのかとも思うが・笑)。そうしていると、あの腐り切ったコンドームのようなニオイが足下から漂ってくるようですこぶる不快。驚くべきことに(?)、1組の親子と若いヤツの計3人が滞在中にサオを出していた。コイの姿をみかけ、ちょっとだけ救われたような気もしたワケだが……。
  つづくо(^ヮ^)о

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2015.03.09

冬のソナタまつり・・・の巻

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「旅と鉄道」(朝日新聞出版)4月号増刊「さらば、北斗星  さらば、ブルートレイン」が発売になりました。
  今回は、記事寄稿のほか裏方にも関わらせていただき、自分なりの「寝台列車追悼」の儀式とすることもできたような気がしています。なにしろ、鉄道でもっとも愛着があるのがほかならぬ寝台列車。今週末以降はわずかな臨時列車と急行「はまなす」(青森~札幌間)、「サンライズエクスプレス」(東京〜出雲市・高松間)のみとなってしまうのだから、正直寂しい(「ななつ星」のような“遊び”は残るが、あれはイベントであって生活や日常の舞台としての鉄道の乗り物ではない。いわば遊園地の汽車ぽっぽの類でありましょう。それはそれでそれなりに楽しいとは思うが……)。

  去るものは追わず……。
  そんなモットーはともかくやりきれない気持ちにもなるけれど、つまりはそういう気持ちで製作に関わらせていただいた次第。書店等でお見かけのさいには、お手にとっていただければ幸いでありますm(__)m

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  話かわりますけど。あるィ夜、なにげにネットショップを散歩していたところ、このバレンボイム演奏のベートーベン・ピアノソナタ全曲DVDを発見。すでに発売されているブルーレイ版の焼き直しとのことだが、わが家には対応プレイヤーがないのでDVDの発売はありがたい。
  で、発売日前のィ予約販売とのことで購入手続きをしたのがたしか昨年10月。ちょうどドイツ散歩のさなかに自宅に届く手はずだったので、帰国したらのんびり聞くべぇと思っていたところ、「発売延期」の明け暮れ。帰国後どころか年を越してなお「発売延期」が繰り返されたのだからなにをかいわんやではないか。「こりゃボツかねぇ?」と半ば呆れ返っていたら、2月7日だかなんだかに「ひょっこり」届いたワケだったのだが……。

  演奏は素晴らしい。ベートーベンに忠実で、かつ歌が美しい。フレーズの呼吸やデュナーミクなど、教わることも多い(恐れ多い言い種だが)。が〜。映像づくりのセンスのなさには絶望させられてしまった。これならわっざわざ映像つきにしないでCDでじっくりと聞けばいいだけ。ひとことでいえば、見る者の気持ちをわざと逆撫でするがごとしの奇怪なコンテであり仕上がりなのである(演奏者の趣味でないと信じたい)。

  ここに、『出版奈落の断末魔  エロ漫画の黄金時代』(塩山芳明著・アストラ刊。当ブログに登場するのは2度目だが)がある。現役のエロ漫画編集長(編集プロダクション社長)が出版界の“奈落”を語るこの本は、紛れもない名著。わが枕元の仲間入りをして久しいのだが、このなかでマンガ原稿づくりの手抜き技の基本(?)が紹介されている。すなわち、コピー(人物や背景)の雨あられや旧原稿の切り貼りなどで、実際にその手合いは珍しくもないらしい。そのなかのひとつに「アップ!!  アップ!!  アップ!!」というのがある。ちょっと引用すると……。

とにかくでかく描く。吹き出しでも、人物でも、顔でも(中略)コマ一杯に描く。そうすれば背景入れる必要はないし(以下略)。>

  そう言われれば思い当たるフシはある。マンガ以外でも、大韓ドラマ、とくにちょっと古めの時代劇(「大祚栄」や「大祖王建」あたり)のコンテがほぼそんな感じではないか。とにかく人物のアップばっかで、せっかく大金をかけてつくった野外撮影セット場の出番もホントに少ないという有り様(日本のテレビ放映がカットだらけということもあるが、大韓滞在中にみたらそう変わりはなかった)。個人的に「映像つきラジオドラマ」と呼んでいたが。

『エロ漫画の黄金時代』によれば、「これの最大の被害者はやはり読者」(ドラマの場合は視聴者だが)。すなわち、
<エロ漫画の基本は、①どんな身分の姉ちゃんが、②どんなスケベ野郎に、③どこで(中略)……を、読者にビジュアルで伝えること>(本書124ページ)
  であり、「アップアップ」だと「すべての点で落第」(同)というワケだ。で、このバレンボイムのDVDの「絵」というのが、まさにそのy点で失格な「アップアップ」のオンパレードなのである。

  そもそも、演奏会場でライブを楽しむのならばともかく、自宅で映像つきで楽しみたいというのであれば、見どころはなんといっても演奏家の華麗なるテクニック、そのビジュアルとしての手さばきにあろう(ロックバンドなどのライブだってギターの早弾きが見せ場のひとつだったりするし、クラシック音楽にしても奏者のテクニックを楽しませるのは伝統だ)。このバレンボイムのDVDはピアノソナタを弾いているのだから、やはりその手元を見たい。全体的な「ヒキ」ももちろんほしいし、演奏者のちょっとした表情や仕種だってほしい。が、鍵盤上を走るその手や指が傍役というのは、まずありえないハズだ。言い換えると、この盤はまずその点においてまったくの失格なのである。
  たとえば、有名な「月光」ソナタ、その第1楽章は一切手元が映されておらず、ヒキ絵のママ終わってしまった。別の曲(最後のピアノソナタとなった第32番1楽章など)では顔のアップばかりというのもあった。手元が移される数少ないカットにしても、アップになりすぎているがために却ってそのディティールが殺されてしまっている。酷い……。

  が〜。演奏そのものは大いに気に入ったので、別の楽しみかたをすることにした。提供された映像は落第だからほとんどないものとし、手持ちの楽譜を引っぱり出して映像の代わりに仕立て上げたのである。おかげで、聞くだけではやり過ごしてしまいそうな細かいニュアンスなどが「ビジュアル」を通してココロにしみ入ってきて、いろいろと発見することもできた次第。しかし、コレならCDがあれば十分ですね(笑)。

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  ベートーベンのピアノソナタ(全32曲)は、それぞれ素晴らしい曲だが、もちろん個人的な好みからすれば立場はさまざま。いまさらながらに「すごいな」と感銘を受けたのは、終楽章のいくつかである。第1楽章はいくつかの例外を除けば「ソナタ形式」で書かれているが、そこで用いられている動機はソナタ形式にふさわしくメカニックなものが目立つ。動機として明解なのだ。それと比べると終楽章のいくつかはどうだろう。むしろ、どうやったらこういう主題が描きだされるのか、ちょっと不思議な思いにかられる曲もけっして少なくないなと思った(詳細は省くけど)。

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  さて、そんななか思い出したのが、「ぁあ、オレは15番(作品28。上画像はその冒頭部分)が大好きだったのだ」という他愛のないことであった。
  この曲には「田園」という表題が添えられているが、ショパンのそうした曲の大半がそうであるように、この表題はベートーベンによるものではないという。しかし、この曲に「田園」を結びつけたそのセンスは素直にわかるような気がするし、四半世紀以上前にはじめて聞いたときに淡い緑色を基調とした風景が思い浮かび、いままたそれと相似形をなす世界のトリコになったことを思えば、それが「田園」的ななにかだったとしてもイメージとの乖離はさほど感じない。

  この曲の第1楽章、第1テーマにつづく移行部の冒頭(40小節目)にたった4声からなる和音が打たれる(この曲は冒頭から4声で書かれ、ピアノ曲というよりは弦楽四重奏かなにかのようでもあるが)。和声学ふうにいえば「短七和音の第1転回形」で、スラーでくくられたつぎの和音も第1転回形になっているため、どこか不安定な響きだ。しかし、これは直前の小節でニ長調の完全終止の余韻が途切れないままに鳴らされる音であり、かつ低音部2声はニ長調のトニック(主和音)のママであるばかりか主音と第5音の完全5度ではないか。したがって、右手が担当する上2声が倚音のように聞き取れ、それがつぎの和音に解決したがっているというふうにも解釈できるかもしれない。それを裏づけるように、「第7音」である左手テノールの「ラ(主調の第5音)」は本来の解決をしないままつぎの和音とタイで結ばれている。
  ちょっとマニアックな話になってしまったが、あらためて聞いて、このふたつの和音がなんと効果的であろうかと長年にわたり思いつづけてきたのを思い出したのであった。じつは、この瞬間こそがこの曲でもっともメリメリするのであり、そういう感性はむかしと変わってないなぁとしみじみしてしまったのである。

  で、冒頭からここにいたる風景。時節柄、ここでは菜の花畑ということにするけれど、静かに波打つ菜の花畑にさんしら(断るのもヤボというか断らないと「?」という方が大半だと思うが、説明するのもアレなので下に動画を貼っておきMASITA。菜の花畑はありませんが)。ようはそういう心象風景なんですよ、コレ……というのを言いたかった(笑)。

▼L.V.Beethoven Op.28(問題の箇所は1分目あたりに)






▲たとえばこんな風景♪(とくに3分目ぐらい〜。ワケあってゴキゲンナナメなさんしらだが、きゃわゆいものはきゃわゆい。사랑이구나〜  しかも「日本版」でカットされた場面もみられまッスムニダ)

  ……っと、当初の心づもりでは、昨年後半に入手したショパンDVDの話につづける手はずだったが、すでに長々とやってしまったのでそれはまたの機会に。

  ぁあ……。関係ないけど、ただいま国外逃亡中にてごぢいます(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)  「田園」というか、目論みではいまごろ(なんだ、今日じゃないか)は菜の花まみれになっているハズなのだが、はたして……?

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2014.10.10

こんな旅の本を読んでます(日本編)...の巻


  前回取り上げた本多勝一氏『新・貧困なる精神  携帯電話と立ち小便』(講談社)には「百名山」に関する著者の所感が何カ所かで出てくる。ここでいう「百名山」とは深田久弥氏の『日本百名山』を指すが、本多氏が指摘しているとおり、深田氏という一登山家が好きに選んで上梓したにすぎない山々を、さもブランドあるいは普遍化した価値のごとくありがたがっている傾向があるのはどうしたことだろう。NHK(公共放送休止中)でもそのテのシリーズが放映されており、本多氏が「馬鹿げた」と切り捨てている「早まわり」までが登場しているが(番組宣伝に遭遇した)、こんな他人のマネごとをありがたがる人々の主体性のなさにはヘキエキとさせられる(ラインホルト メスナー氏あたりに感想を訊ねてみたいものだ。*注)。

  これが、たとえば「視聴者が選んだ百名山」というのであれば、なおコピーのニオイこそすれ共感できる部分があるに違いないが、それにしたって「深田?  だれそれ?」という疑問すら浮かばずになんとなく番組をつけているひとが大勢派なのであろう(登山ではないけれど、どっかの坂道が名所になってしまい、「自分の殻を破る」ためにその他大勢の同好者とともに坂を登るだのという話もNHKの宣伝だかで目撃したが、「ウゲッ!」と胸クソ悪くなった。まぁ、他人に対し感動がどうのといった話ではなく、主役が「自分」のようだった点には共感できなくもないが、そんなモノでさえ「みんなが行くから」的に殺到するとはねぇ……)。

  これは世界遺産詣でも同様で、なにかの折に書いたかもしれないが、「世界遺産だから」とか「世界遺産になったから」といった“きっかけ”でしかその現場に訪れないというあたりに主体性の貧困を感じてならないのだ(「しか」の部分に異論があるかもしれないが、煎じ詰めればコレもまた「みんなが行ってるみたいだから」に近いセンスなのであろう)。そんな風潮に嫌気がさしているということもあるが、自分自身は原稿類に「世界遺産」の文字を原則として使わない。「ジューシー」だの「旅の疲れ」などと同様の禁止用語なのである(一度、文中に編集サイドから加えられたことがあり、そのさいも編集担当に「コレ、取ってくれませんか?」と懇願したものだ。どうやら編集部側の事情もあったらしく、こちらもムリにゴリ押しするほど純粋な人間ではないし、“エラ”くなりたいとも思っていないので意向を飲んだワケだが)。
  もちろん、世界遺産に登録された場所や物件にはぜひ訪れてみたいところや一見の価値があるところも多いとは思う(深田氏の「百名山」も同様だ)。だが、世界遺産なんぞという題目は、ユネスコという一機関が進めている施策にすぎず、物件そのものの価値を示すものでありはしない。しかも、そのタテマエは人寄せではなく保護や伝承にこそあるハズだ。それなのに実態はといえば“ブランド”だから、「みんなが行くから」と押し寄せるニンゲンたちと、それをおまんまのタネにしている観光業者という図式……(熱心に保護に取り組んでいる国や地域、物件もあるので念のため)。
  本当は、そんな冠など関係なしに素晴らしいものは素晴らしいのだし、なんにせよそれを感じるのは自分自身にほかならないハズではないか。他人のつけた冠などクソ喰らえだ!

*注:メスナー語録的なものは数多いが、たとえばいま目についたところでは、雑誌「山と渓谷87年7・8月号」(山と渓谷社)に掲載されたインタビュー上で、メスナー氏がつぎのように語っている(訳:宮下啓三/原文数字は漢数字)。それにして、も。ちょうどこのテキストをつくっていたころにBSテレビでメスナーの映画が放映されていたとは(あとでプロフィール代わりにリンクをつくるときになって知った)、驚いてもしょうがないが驚いた。


「8000メートル峰全座に登ったからといって、画期的とは言えません。(中略)たしかにアルピニズムにおける目標のひとつとするに足る思いつきであったとはいえ、8000メートル峰に初めて登頂するとか、8000メートル峰への最初の単独登頂とか、ふたつの8000メートル峰の最初の縦走と比べて、重要性はすでになくなっています」
「1982年に私が全山登頂を思いついた当時、まだだれ一人として、8000メートル峰の全部に登頂しようなどと考えた者はいませんでした。ところが、ここ数年のうち、およそ1ダースほどの人たちが私を追い越すことを目標にかかげました」
「こんなスピード登山者のなかのだれか一人でも、単独でK2への新ルートを拓いたり(中略)であれば、そのために何カ月もかかったとしても、私にとっては価値が高いのです」
「いつだって私は着想によって生きてきたのです」
(いずれも同誌7月号)

  登山という世界の話だけではなく、広く示唆に富む発言だと思うのだが……。

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  さて、ここまで3回にわたり極私的流に“旅の本”を引き合いにして言いたいことを書きなぐってきたワケだが、「日本編」では純粋に旅の本の話をしてみたい。
  筆頭に持ってきたのは『人、旅に暮らす』(足立倫行/現代教養文庫)。12編からなるルポルタージュ集で、月刊誌『旅』(日本交通公社──旅の文芸誌があった時代なのだ)に連載された足立氏のデビュー作である。

  著者は、なによりも人間を描くノンフィクションライター。代表作である『日本海のイカ』(情報センター出版局)や『北里病院24時』(新潮社)、『アダルトな人びと』(講談社)、『イワナ棲む山里』(写真・秋月岩魚/世界文化社)など、いずれも人間の姿がいきいきと描き出されている。そのなかには、たとえば漫画家・水木しげる氏のような著名人に接近した作品がある一方で、市井で暮らす“ふつうの”ひとびとにまなざしを向けている傾向が強いようだ(水木氏の場合でも、対象が著名人だという点はあくまで付加的要素である)。
  本作はどちらかといえば後者にあたるが、題材となった“旅人”たちの素性は多彩である。すなわち、スリ専門の警察官(が“ふつうの”といえるのかという見方もあるかもしれないが、足立氏によって明かされた素顔はなんら特殊ではない)であったり、ラブホテル専門のベッドメーカー社長であったり、国土地理院の測量官であったり……。知っているようないないような彼らの生業。そうして各地へと渡り歩く人間たち。これはつぎに挙げる『人、夢に暮らす』にも共通するが、そこに描き出されているのは、まさに現代ニッポンに生きる“ふつう”のひとびとなのである。それぞれがそれぞれに生業を持ち、真剣に日々をしのいでいるという点において。それが、足立氏の取材とペンとを通じて読者の好奇心を呼び覚ますのである。

  たとえば、筆頭にある「バンクの渡り鳥」では競輪選手にスポットをあてているが、競輪という競技ないしギャンブルという存在は知っていても、関係者の舞台裏やそこでみせる素顔はということになるとにわかにはわかりづらいのではないだろうか。そこに密着し、“ふつうの”人間に迫る著者。選手とその家庭の暮らしの糧となる競輪選手という仕事。そこにあるのは誰彼とも変わらない日常のひとコマである。
  レースを終え、カネを受け取る選手。

  名前を呼ばれた。経理の女性がふっくらとした茶色の封筒を事務的に差し出し、小山はそれを事務的に受け取る。(中略)224回目の旅の成果だった。(28〜29ページ。原典は漢数字)

  地に足をつけた、ふつうのさり気ない日常だ。

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  一方、本書『人、夢に暮らす』(新潮文庫)は前書の姉妹版といえるかもしれない。

  20編の人間探訪であり、同時に旅が綴られている。驚くのはその興味の幅の広さだ。鷹匠、配膳、繍師、若き力士(最軽量力士「育盛」が引退したのを盟友Sが残念がっていたが)、都市鳥愛好家、北方領土とひとびと、元学徒兵、ドブ板通りの少女etc.。
  職業でいえば、鷹匠などその存在は耳にしていても実態となるとベールに包まれていたり、天ぷら職人の修行や日常などにふと興味がそそられたりする。配膳というのも、なにしろそういう場に行く機会もなければ、本書によって知り得た職業ではあった。ほぼ唯一の著名人ということでは、あの畸人ギタリスト(断るのもヤボだがリスペクト言葉)寺内タケシ氏にも突撃しているが、その寺内氏を含め、職業や立場はさまざまではあるけれど、前作と同様に市井で暮らすふつうのひとびとだといえるだろう。
  そして、その幅広い好奇心に支えられた視線。「あとがき」を寄稿した野田知佑氏によれば、「倫行にかかったら尻の穴まで何もかものぞかれるぞ」と氏の知人から「脅された」という。しかしそうだと「脅され」るほどに念入りな取材は、おそらくは取材される側にとっても心地のよさを伴っていたのではないだろうか。それだからこそ、こうした名著をなしえたハズだ。

  ところで、足立氏からは氏の作品をめぐってあれこれお話を聞かせていただいたものだ。なかには、いまひとつ噛み合わなかった取材や題材といった生々しいエピソードも具体的に教えていただいたものだが、『アダルトな人びと』(講談社文庫)をめぐっての和やかなひとときはいま思い出してもケッサクであった。
  同作はアダルトビデオ業界で生きるひとびとの視線をあてたノンフィクション。ありきたりな(?)AV女優列伝みたいな世界ではなく、監督を含めた裏方的なひとびとの仕事や日常が描き出されている。個人的に、作品はともかくそれをつくっているひとびとには興味があって、AV監督だったバクシーシ山下氏のエッセイ集(というのか?)などを面白く読んだりもしている。そんなこんなで本作は個人的にも好きな作品なのだが、なんど読み返してもV&Rプランニング(バクシーシ山下氏が所属したキワモノ系製作会社)のところでもっともペンが走っているように思えるのである。そこで、なにかの折にそんな話になったところ、逆に足立さんからすっとんきょうなことを訊かれて大笑い。

オレ「ライト柳田のところ、ありゃぁ最高ですよね」
足立「あいつ、いまどうしてるの!?」

  い、いや、「どうしてるの」と訊かれても、そりゃこっちのセリフですよ、兄貴……。

  ライト柳田ってのは、件の山下監督作品でレギュラー的存在だった特殊系AV男優。足立さんが本書の取材のおりに、高田馬場の食堂だかで遭遇したそうなのだが、前夜はボーリング場で過ごしたのはいいとして、持ち物を盗まれてそのとき無一文。十代後半から宿なし生活を続け、山下監督に出演の有無を電話確認するのがそのころの唯一の仕事だったというナイスガイなのだ。そのクセやたらに高そうなサイフや靴、輸入タバコを持っていたあたりは、特殊漫画家・根本敬氏いわくの“イイ顔”ないし“ダウナー系”そのまんま(という妙な部分に納得したりしたものだ)。
  で、その消息だが、ちょうどその少し前にタマタマ“近況”めいたものにネットで遭遇していたので、足立さんにそのまま報告。
オレ「だれだかとどっかの飲み屋で飲んでたところ、『タバコを買ってくる』と言い残して表に行ったっきり行方不明だそうです」
足立「あっはははははは(ウレシそうに大爆笑)」

  かように、先輩との対話は楽しいのであったо(^ヮ^)о

Danjo01

  トリは『にんげんドキュメント 乗り物に生きる』(檀上完爾/現代旅行研究所)。雑誌「旅と鉄道」(鉄道ジャーナル社)に連載されたノンフィクションを編纂したもの。新幹線の運転士や食堂車スタッフ、航空自衛隊隊員、観光タクシードライバーなど“乗り物”を自由な感性で捉え、そこに生きるひとびとを追ったルポルタージュである。
  本書の主役たちも足立氏の作品のひとびとと同様に、いわば市井で暮らすふつうのひとびとである。そこにある仕事への情熱。語られてゆくエピソードの数々は、それぞれがドラマであり、興味を誘う。モノを書くにあたって、人物に焦点をあてることの面白さが凝縮されているのだ。

  この本、じつは著者の檀上氏からいただいた記念品。「旅と鉄道」の連載(といっても相当に古い話だが)を読んでいて、じつは密かなファンだったのである。そのころはいまとは異なる業界でサラリーマン生活をしていたが、まさか本の世界に飛び込むなどとは自分自身も想像しておらず、いわんや愛読していた作品の著者にお目にかかれるなどありえない話だったハズ(前項の足立さんも然り)。そんなだから人生は面白いというのは飛躍……か?  しかしそのワリには精進がまったくもって足らない自分にいちおうの(?)反省しつつ、久々にこれらの愛読書たたちを取り出してみて、モノを書くということの基本をあらためてかみしめてみた次第。

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2014.10.04

こんな旅の本を読んでます(韓国編)...の巻

Hinkon01

  引き続き“旅の本”の話を……。
  前回アップの「アメリカ編」つながりということでは、本書に収録されている著者によるディズニーランド探訪記があるので、そちらで触れようかと思ったが、あとで触れる事情により「韓国編」で取り上げることにした。ディズニー〜についていえば、いまひとつキレが感じられなかったのが残念。もっと徹底的な罵詈雑言の嵐だったらよかったのになァと思うのだが……。

  個人的には遊園地は嫌いではないし、徹底したイミテーションの世界(映画やドラマのセット場もしかり。ロサンゼルスのユニバーサルスタジオはすこぶる面白かった)もそれはそれで面白いので、ディズニーランドのような世界も楽しみ方があるように思う。しかし、それとはやや乖離した部分で余計なひとことを添えるならば、ディズニーのアニメーション作品って、そんなに面白いですか?  たとえば「白雪姫」や「ファンタジア」をはじめとするいくつかの作品は何度か見たけれど、動画の美しさには目をみはったものの、物語の内容はこれっぽっちもココロに残ることがなかった(「101匹わんちゃん」はやや例外)。それならばというのもヘンだが、本多氏が語るように手塚治虫氏や宮崎駿氏の諸作品のほうがさまざまな意味で影響大だ(ただし、例外はあるものの、なにかっていうと戦闘場面がつきものになっている日本のアニメ作品の傾向には疑問を覚えることもある。「なんでこうなっちゃうの?」みたいな)。
  加えて、同じアメリカ産アニメでいえば、スヌーピーを見るとほのぼのとした童話の世界が連想される一方で、ディズニーのキャラクターを見てもビジネスの4文字ばかりが先行して浮かんでくる。

  閑話休題。じつはこの本、金大中氏と本多氏との対談が収録されており、何度も読み返すこととなった。金大中氏についていえば、いくつかの暗部を抱えていたことは承知しているけれど、尊敬できる政治家だったのではないかと考えているからだ(わが国でいえば、たとえば白川勝彦氏〈リスペクト!〉を金大中氏と重ね見たりもする。リベラルな自由主義者として)。
  語られている内容は、金大中氏の出自から金氏自身が体験した日本統治時代や対談当時の韓国の実情などが中心だが、いずれもわが国とは切り離せないその関係が指摘されていて、なにかと読みごたえがある。
  日本統治時代をはじめとする日韓(北朝鮮を含む)関係は、いまなお禍根を残しており解決の道筋さえ掴み切れない状況だが、金氏による率直な語りのなかにはそのためのヒントがあるような気がする。あの時代からそれまでなにがあったのかを語る金氏は、けっして過去に拘泥したり怒りを露にしてはいない。むしろ、現在がどうあって、なにをすべきなのかという部分に力点が置かれているのである(加えて、嫌悪や憎悪、怒り、復讐心についても言及されてはいる。しかし、それよりもむしろ「恐怖」「こわい、あぶない」という感性や視点を、日本人がどれだけ理解しているだろうかという金・本多両氏の指摘はきわめて重要だ)。

  朝鮮半島統治において、日本はなにをしたか?

「財産も奪われ、国土も荒らされ(中略)、しかしそのどれも被圧迫民族が受けた一般的被害であるといえる。だが、西欧帝国主義がやっていないものに民族言語の問題がある。「日帝」は韓国語の抹殺をはかろうとした。(中略)日本帝国主義は韓国民族から言葉を奪い去ることで、民族そのものを地上から抹殺しようとしたことを意味しています。おそろしいことです。まことに残酷なことです。現在日本で売られている韓国への韓国案内書のうたい文句に、『日本語の通じる国』となっており(後略)」

(金大中氏。同書141〜142ページ)

  これは知っておくべき証言である。本多氏も繰り返し主張しているとおり、「言葉は民族にとって最大で不可欠の中核文化」(142ページ)だからだ。それを、「日本語も覚えよ」というのではなく「日本語だけを使え(母語を使うな)」という強制。なにしろ「たとえば日本語をわからない人と会っても(中略)朝鮮語を使ってはいけない。日本語を使わなかったらなぐられる、処罰される」(金大中氏。同書88ページ)だったというのである。これは、現代の日本人や韓国人らがファッションやビジネス、あるいは媚び、あるいは傀儡的な意味で“アメリカ語”を使うのとはまったく背景が異なる。いまのところは……。

  一方、朝鮮半島は歴史的にみて中国との関係も無視できないが、金氏のつぎの証言はどうだろうか。


「しかしいま『北』でさえ、中国とあれほど近いながらも漢字を使わないでしょう。韓国あるいは朝鮮も、歴史から漢字を抜けば文化が非常に抜けるわけで、それでも使わない。その大きな理由は、中国に対する警戒心からです」
(101ページ)

  正直、「それほどまでに?」と思わないでもなかったが、これもまた示唆に富む証言だとは思う。それほどまでにいまなお恐怖感を抱いているということかもしれないからだ。
  国家以前の民族としての韓国人とその文化を知る。同時にわが国や日本人との関係を理解する。あくまでも未来指向で。金大中氏のコメントには、そのためのヒントが山盛りなのではないかと勝手に考えている。……オマケとして(?)、対談のなかでもっとも恐ろしかった金大中氏によるつぎのコメントを引用しておこう。


「日本はかつての帝国主義に逆戻りをする可能性がある」
(121ページ)

  帝国主義云々は微妙なところかもしれないが(そもそも“宗主国”が黙っていないだろう)、「逆戻り」という点では、対談から41年を経ていよいよ現実味を帯びてきている。

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「この本を出されてから、韓国への入国に問題があったりはしませんでしたか?」
「大丈夫ですよ」
  著者の康煕奉氏に、本書『こんなに凄いのか!  韓国の徴兵制』(スリーエーネットワーク刊)をめぐるやりとりのなかで訊ねた問いと答えである。つい、そんな下世話なことを訊きたくなったほど、本書には生々しい証言や取材内容が刻まれているからだ。

  いうまでもなく、韓国には徴兵制度がある。しかし、その実態はわれわれ日本人にはわかりづらい面が多々あるように思う(もっとも、自衛隊だって外部の者からすればブラックボックスのようではあるが)。それは、とうの韓国人にとっても通ずることであるのが本書には示唆されているが、在日韓国人である著者にとってのその思いは、たしかに「日本人にはゼッタイわからない」ことなのかもしれない。国によって命令される軍隊への入隊。それは、2年以上にも及ぶ拘束生活であり、“シャバ”との隔離でもある。祖国防衛という錦の御旗があるにせよ、そこで課せられるのは破壊と殺しの訓練ではないか。そして、日本で暮らす著者があるとき親戚筋から指摘されたのである。
「おまえは韓国で生まれたことになっているんだよ。だから戦争にも行かなくちゃならないかもな」
  それまで、日本で生まれ育ち、「徴兵制とはまったく無縁だと思っていた」著者にとって、それは恐怖以外のなにものでもなかったようだ。しかもときは朴正煕による軍事独裁政権下である(いうまでもなく、現大統領のご父君)。「(ベトナム戦争で)韓国軍がベトナムで非道のかぎりをつくしている」(72ページ)という軍隊に徴集され、戦場に送られるかもしれない……。事実は徴兵される可能性などなかったというが、これが著者が祖国の軍隊について考えてゆくきっかけになったのである。

  とはいえ、本書のベースはニュートラルである。微妙なテーマを、著者自身の問題として捉える一方で、政治的なプロパガンダの類は一切排除されている。それゆえ、祖国の徴兵制をめぐる社会について冷静な視線を保つ。それは祖国に対して善意のバイアスをかけないということにもつながる。


・空腹と暴力の世界
・徴兵制の仕組み
・兵役の代替制度
・兵役問題が大統領選挙を直撃
・陸軍大将も兵役を不正に操作
・経済危機で入隊希望者が急増!
・民主化活動家への報復
・選挙投票への圧力
・韓国の学歴社会は軍隊よりひどい


  小見出しのいくつかを抽出してみたが、それぞれ赤裸々に事実がえぐり出されている。そのなかからランダムにフレーズを取り上げてみよう。


  権威主義が横行する韓国では、「貧乏人が軍隊へ行くものだ」とふんぞり返っている金持ちや特権階級が多い。そんな連中が政治を仕切っているのだから、政治浄化も掛け声だけで終わりそうだ。(106ページ)
「入隊したとき、最初に驚いたことは密告を奨励させられたことだった。(中略)中味は『大学で自分の友達が何をしたか』『知り合いで学生運動をしている人間がいるか』(中略)本当のことを書かなければただじゃおかないとすごく脅かされました」(112ページ)
「(軍隊では)100%近く全斗煥政権を支持するような票が集まっていました」(114ページ)


  このように、なかなかに刺激的なのだ(もっとも、密告の強制については西日本のどっかのチンピラが狂犬おっと強権を発動しようとしていMASITAなァ。組織票については「必ず自民党を支持するようにされています」、すなわち組織的に自民党への投票を誘導していたとある警察官の家族から話を聞いたことがあり、それは自衛隊も同様であろう。その人物の話によれば、選挙については体制を保守するという名分があったようだが、それだとしても与党をではなく自民党をというところが興味深い。韓国の軍隊は、それまで統治してきた日本軍を手本にするほかなかったという話もあるが、だから似てしまうのだろうか?)。

  そして、語られてゆく兵役経験者たちの体験の数々。彼らなりの兵役体験の総括として、たとえば「人間的な成長」への“イニシエーション”として肯定的に捉える人物と真っ向から否定する人物とが登場している。部外者からみて、ともに納得できる面のある談話だが、しかしそれが己の成長に一役買っていたとしても、軍隊である必要はないのではないか。著者も言う。
「徴兵制がない社会が理想の姿だ」
  そして、そのためになすべきことは……。

  といった硬派な内容なのだが、ディープコリア的なできごともある。新兵訓練所のある論山に繰り出した康氏、タクシーに案内を頼んだのはいとして、それがとてつもない「暴走タクシー」だったという(まぁ、大韓名物かもしれないが)。ムリな追い越しなどお手のもの。ついにはトラックと正面衝突しそうになって悲鳴を挙げたほどだというのだが、ケッサクなのは運転手と別れるときだ。運転手がくれた名刺がハングルのみだったため、漢字を教えてもらおうとしたところ、とうの運転手が平然と答えたという。
「悪いな。目が悪いんで字がうまく書けないんだ」
  ぁあ、イイ話だなァ……。ともあれ、隣国の暮らしや実情を垣間見ることができるおススメの1冊である。

  ついでに……。ご存知の方も多いとは思うが、ソウルには「戦争記念館」という巨大施設がある。古代から現代に至るまでの“祖国防衛”の歴史などが資料やジオラマ、映像などを用いて展示されている施設だ。そういう施設なので、わが国との関係も展示され、日本人にとっては見心地のよくない内容ももちろん含まれているが、2度ほど見学したところでは、そうした部分(仮に誇張があったとしても)については納得できた。中国大陸との関係も然りで、ある民族が祖国と民族とを侵略から守ることになぜ文句がつけられようか。しかし、ベトナム戦争以降、おもにアメリカ合州国の片棒を担ぐようになってからの展示には、いささか「ザラリ」としたものが感じられた。そんなものは祖国防衛とはなんら関係がないハズだと思ったからだ。そのあたりも、いずれは康氏をはじめとする韓国人に率直な話を訊いてみたいと考えている。

  もうひとつついでに……。近年、韓国ドラマなどが注目されたなか、俳優やタレントらが入除隊したなどといった話題が自然と流布されている。じつは、“韓流”という言葉が生み出された当初、こうした話題も盛んに輸入されたことなどから、「ひょっとすると徴兵制に慣らすための布石では?」と勘ぐったことさえある。どうやらそれは妄想に過ぎなかったようだが、しかしせっかくなのだから隣国の素顔に触れ、自国や自分自身のためにフィードバックしてもいいのではないかとも思う(個人的に、韓国旅行や韓国ドラマなどに関する寄稿も多いが、“韓流”という言葉は、次回触れる「世界遺産」と同様に特別な事情がない限りは意識的に使わないようにしている)。

Aikanmajimak

  ところで……。数年にわたり寄稿を続けてきた雑誌「愛してる!! 韓国ドラマ」が、夏の号で廃刊となってしまった。これは、単に韓国ドラマの人気凋落──というワリには相変わらずの放映本数だが──の影響ではなく、おもに販売上の裏事情がからんでの顛末のようだ(そのあたりの経緯は割愛します)。前出の康煕奉氏が企画・編集をとりまとめてきたが、個人的に愛着のある雑誌だったので残念至極。新たな展開を祈念するととともに自らも精進しゆくほかはない。

  それはそれとしても、韓国人役者のたとえばイスンジェやイムヒョンシク、キムガプス、イドックァ、キムヘソン、キムヨンオク……etc.といったベテラン勢が現役で活を飛ばしているのをみると、役者(だけではないが)ってのは現役だからこそ輝くのだなぁといつも思う。あえて名前は挙げないけれど、事情はどうあれ、いかに名優であったとしても若くして過去の人を決め込んでしまってはおしまいである。……その話とは異なるが、いぇすらにもうひと花咲かせてもらいたいというのは個人的な事情(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)

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2014.09.28

こんな旅の本を読んでます(アメリカ編)...の巻


  アメリカ合州国というのは、日本や日本人との関わりあいが決して少なくはないと思うのだが、そのくせなにかとナゾに満ちた“くに”とはいえないだろうか。いわく「自由主義の総本山」であり、その理想をとなえた「アメリカンドリーム」。現代の消費文明を牽引し、それを叶えるためのツールの水源。続々と発信されるエンタテイメントを通じて提示されてきた暮らしぶりや文化。そしてスケール……。そんな彼方の国に、オレは子どものころには憧れを抱いてきたし、そういう日本人は少数派ではないハズ。現実に訪れたアメリカ合州国──これはもちろん無邪気な観光客としてだったが──は、陽気でフレンドリー。生まれ育った祖国と異なる文化やセンス。刺激的だった。ロサンゼルスの街を歩きながら、「こんな街に暮らすのも悪くない」と思ったほどであった。

  だが、己の持ち時間が過ぎてゆくとともに、その素顔に影の部分が浮かんでいることに気づく。それも素顔そのものを圧倒しているのが、それらの陰影だったのだ。そのさいたるものが、いわゆる“戦後”という概念を建国以来これまで持ってこなかった戦争国家という実態であり、史上最兇の軍事力と突出した経済力にあかした奢りである。「人種(および民族)のるつぼ」といわれながらも、日本人にとっては誤解を招きかねない“飛躍的訳”である「合衆国」とは裏腹に顕在するいわれなき差別も窺えてくる。
  しかし、そうした陰影を含めてあの“くに”に惹きつけられていることは否定できない。憧憬と反発というのはあまりにも単純化しすぎているけれど……。

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  リスペクトする畸人・藤原新也氏によるアメリカ探訪記『アメリカ』(集英社文庫)は、そんなとりとめのない心情をくすぐった作品だ。

  内容は簡潔。モーターホームを駆って、アメリカ合州国の西海岸を皮切りにひとり周遊したそのルポルタージュである。
  ある種孤独な旅のなか、旅人の心境にさまざまな思いが去来する。それは通りすがりのアメリカ人が見せたふとした仕種であったり、画一的にコピーされたような貌を持つ街であったり、ちょっとした事件であったり、沙漠のなかを延々と続く道そのものであったり、そんな大地のまっただ中で暮らす人間の姿だったりする。そして人種・民族差別と底意地の悪いそのセンスとの遭遇……。そんなもろもろに対し正面から自我をぶつけている(というのが適当な言い方かどうか……)あたりはいかにも著者らしい感じたが、しかしそれがあの国の日常なのかもしれない。

  話は飛ぶが……。近ごろ、たとえば韓国旅行のさなかに“日本人だから”と思しき差別を受け、あるいは「イヤな思い」をさせられた。だからあの国はダメだなどという話が生ゴミにたかるハエのごとく流布されている。それはそれぞれまったくのウソではないに違いないが(同時に「特殊を一般化」しているきらいもある。ある種のクズ紙の得意とするところだろう)、そういう人たちは自国やそのほかの国におけるそのテのできごとについてまったく体験(見聞)したことがないのだろうかとも思う。
  むしろそれよりも深刻なのは、韓国や中国における“日本人差別”と欧米(日本や韓国にも顕在するが)における人種・民族差別とはまったく異質なものであり、そこを理解できているのかというところである。周辺国でイヤな思いをさせられた?  アタマにきたのなら、自分に非がないのなら思いきり言い返してやればいい。十全な“心がけ”なしには無益な返り打ちに遭うだけだろうが、言い返す権利はあるハズだ。

  ついでながら、世界中で撮影を続けている知人の写真家H氏によれば「世界中に“親米国”なんかほとんどありゃしないよ!  徹底的に嫌われているぜ」という。ひょっとすると、“嫌米”国では韓国や中国における対日本のそれに近い米人差別があるのだろうか。とはいえ、繰り返すけれど“反日感情”がのべつまくなしに涌いているワケではないので念のため(そもそも、俗にいう類の“反日感情”にいちいち遭遇するようだったら、わざわざ好き好んでまで韓国通いなんかしませんよ、オレだって)。


  話を戻して、本書でいまひとつ面白いと思ったのは、食に関する考察である。このあと触れる『新・アメリカ合州国』(本多勝一/朝日文庫)でも異なる視点でアメリカ合州国における外食産業について言及されているが、本多氏が(あえて?)ルポで踏み込まなかった領域について藤原氏がある見方を示していて興味深い。ハンバーガー、ホットドッグ、コカコーラ。そして食堂をめぐるセンスと習慣。フラットな旅だからこそ見えてくる外国の姿なのかもしれない。ン〜〜〜、ダイナマイト!!

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  本書『アメリカ合州国』(本多勝一/朝日文庫)は、もはや古典の領域に入ったかもしれないが、センセーショナルな内容はいまなお色褪せているとは思えない。藤原氏の『アメリカ』とは異なり、ここではアメリカにおける黒人社会や先住民族社会を中心に視線が向けられているが、旅のルポルタージュとしても十二分に読みごたえがある1冊だ(センセーショナルとは事実のことであって、「センセーショナルに描く」というのとは異なる。本多氏の筆致はあくまで淡々としている)。

  本多氏がアメリカ合州国に滞在したのは1969年。およそ半年間の取材旅行だったという。ニューヨークのハーレムにアパートを確保し、さらにミシシッピなどいわゆる深南部へと黒人カメラマンとともに足を延ばす。そのさなかに遭遇した人種・民族差別の数々。食堂における底意地の悪いヒソヒソ話や攻撃、来訪者の顔を見るなり「空室あり」が突如「満室」になるモーテル。正統な根拠なきパトカーによる検挙(イヤガラセ)。そして実弾による銃撃(暗殺未遂)……。本多氏自身が「あとがき」で記しているように、映画「イージーライダー」さながらの命がけの旅が窺えてくる。
  このルポが新聞に掲載されたさい、内容の事実を疑う声や「偏向」だのといった反応が寄せられたと同じ「あとがき」に記されているが、当時をしてそれほどのインパクトを日本社会(読者)に与えたということなのだろうか。事実を疑った人にとってのアメリカ像とは、はたしてどのようなものなのか……。

  アメリカ合州国南部。知人K氏は、アメリカ合州国の全州を廻った経験を持ち、ハワイ島に別荘を構えるほどの“アメリカ通”だが、なにかのツアー(アメリカの船会社主催のクルージングだったと記憶)にご夫妻で参加したさい、ミシシッピだかフロリダだかでガイドに注意を受けたという。
「Kさん、アナタたちは夜の街には出ないほうがいい。なぜかわかるか?  それはユーが日本人だからだ」(「日本人」ではなく「オルエンタル=東洋人」と言ったかもしれない。なにぶん10年以上前に聞いた話である)

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  本多氏は2001年にもアメリカ合州国を再訪し、“その後”を報告している。著者自身が記しているように、最初のルポと比べるとインパクトはやや大人しいきらいがあるものの、人種・民族差別をめぐる変化が、限られた範囲でとはいえ克明に綴られていて読みごたえがある(前作同様に、先住民に関する章はあまりに痛々しく読むのが辛いが……)。
  差別問題についていえば、明らかな前進がみられたらしい。だが、つぎの考察──。


  よくアメリカの「復元力」とか「ゆり戻し」「立ち直り」とかが、よい意味で語られることがある。(中略)実は、合州国の「復元力」も「ゆり戻し」も、反対の悪い意味でのこそ本質ではないのか。
(同書220ページ)
  たとえばチョムスキーとかガルブレイスとか、その他の非常に立派なアメリカ人がいるんだけど、決してそれが主流にならない。主流はブッシュみたいな奴であってね。(中略)「逆の揺り戻し」じゃないのか、主流はワシントンとかブッシュであって揺り戻して元の悪い方に戻っちゃう。
(280〜281ページ)

  これは、どうもわが国に対しても指摘していいかもしれないが、そんな「逆の揺り戻し」を支えているのはあくまで“善良”なひとびとである。それがなんともおそろしい。

  本書の巻末には複数の対談が掲載されているが、そのなかにつぎの証言がある。

「僕はニューヨーク市で品物を店で売ってもらえなかった経験があります。(中略)タイムズ=スクウェアあたりだと、日本人に対してもかなり非友好的な態度で接する店がありました
(223〜224ページ。丸子王児氏=ニューヨーク在住)」

  あるいは、これは友人の作曲家・デラTの話だが、「(スタジオなどで)日本人のクセにこんなことできるのかよ?  みたいな態度はあるね」。
  もちろん、こんなのばかりではないこともいちおうつけ加えておくし、理念ではなく“ガチンコ”の対立があるからこその理解もあるのではないかとも想像するワケだが、少なくとも自分自身はそんな差別する側のようなみっともないマネはしたくない。人種や民族、国籍を問わず、友人がたくさんいるっていうのはいいことじゃないかと、珍しくキレイゴトを並べてみよう。

  なんだか「旅」の話からあさっての方向に飛んでしまったが、飛んだついでに、藤原新也氏の名作『東京漂流』(朝日文庫)でドキリとさせられたくだりを以下に引用してみよう。


  その旅(引用者注:藤原氏のアジア放浪)がいったい私にとって何だったか、それをいくばくとも明白にするいくつかの符号がここにある。それは私が最初にインドへ旅立ったのちに、日本で起こった政治活動家たちによる一連の国外脱出事件である。つまり、北朝鮮への田宮高麿らの(中略)。私は彼らが日本逃亡を企てたその感性を、痛いほどわかった。
  同時代に生きた田宮高麿や重信房子らの出国が、私の旅と基本的に同じ根を持っていないほうが、むしろ不自然であるともいえる。(中略)
  国、私の母胎が崩壊してゆくという危機意識は(中略)取り返しのつかない大きな命題として、当時の日本青年の前に立ち塞がったのだ。
(同書61・62ページ)

  祖国に愛着を持つがゆえにその感性や行動が“逃亡”や“脱出”へと収斂してゆくこともありうるのではないか?  そしてそれは、けっして他人事ではないような気もする。引用部分につづいて、「日本国籍を持ったまま外地に永住してしまったという例を、いくらもこの目で見た」と著者は伝えているが(著者自身は、その直後に「自分が一個の日本人であることへの愛おしさをさえ感じる」と綴っている。同感)、日本国籍を棄て祖国に暮らすという考えはどうなんだろうともふと想像した。

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2014.09.22

こんな旅の本を読んでます(アフリカ編)...の巻

Hotzone

  世間はすっかり秋模様。秋だから読書というワケでもないが、4回にわたり気ままに旅の本の話を……。

  このところ、わが国におけるデング熱の発生だの西アフリカの数カ国で猛威をふるうエボラ出血熱の流行といった感染症の話題が続いている。本書『ホット・ゾーン』(リチャード プレストン/日本語版:高見浩訳・飛鳥新社)は、そのエボラ出血熱を世界的に知らしめたベストセラー。ずっとその存在(持っているのを)忘れていたが、盟友Sがひょっこりと返却してきて、「ぁあ、そういや……」と思いさっそく読み返してみた。

  本書の中心はアメリカ合州国のバージニア州レストンで起きたエボラ禍を描いたノンフィクションである。サンドイッチ状にレストン事件を挟む上下のパンの部分は、あらためて読み返してみてもたいして面白いとは思わなかったが(その理由はあとで述べる)、本書の狙いとはおそらくは別の部分で興味を引き立てられた。
  実験用サルの収容所で発生したエボラ出血熱をめぐって勃発したユーサムリッド(アメリカ合州国陸軍伝染病医学研究所)とCDC(疾病対策センター)との対立。ユーサムリッドで事件の指揮を執ったCJピーターズとCDCのジョーゼフBマコーミック。本書でも紹介されているとおり、マコーミック博士はザイール(現・コンゴ民主共和国)などでエボラ出血熱をはじめとする新興感染症の現場を渡り歩いてきた人物である(次掲書)。一方のピーターズ大佐はこの稀にみる事件を受けまっ先に現場にあたってきた。このふたりの関係を本書では「倶に天を戴かざる」と評しているが、実際に相当の対立があったらしい。


  われわれ(引用者注:CDC)強者たちがきたからには、もう安心だ。きみは火傷をする前に、安んじてこの件をわれわれに任せてかまわないぞ。
(同書294ページ)

  このようにマコーミックが会議上で宣言し、陸軍側の反感を買ったというのである。この件について、本書によれば著者の電話取材に対し、マコーミックはつぎのように証言している。


  レストンの事件に関して、こちらもお役に立とうと言ったのはたしかだよ(中略)敵意が存在したとしたら(中略)彼らの側だったんじゃないかな。こちらは要するに、やあ諸君、よくやった、と言いたかっただけなんだから。
(同書295ページ)

  どうやら両組織間には以前から確執があったらしいが、事件が進展していくなかでも対立が露になっている。すなわち、エボラウィルスに感染したと思われるサルの飼育係らに対する措置である。件の会議を受け、人間に感染が広がった場合の対策を受け持つことになっていたCDCは、マコーミックの判断で感染者をスラマーと呼ばれる軍の隔離施設に収容しなかったのである。当然、ピーターズはマコーミックに対し猛烈な抗議を展開、現場はさまざまな意味で一触即発の状態にあったようだ。

  一方、とうのマコーミックはこの件についてどう証言しているか?


  それまでの立場を撤回するのが、ある人々にとってそんなにも大変なのだということを、わたしは考慮に入れてなかった。今度のウイルスには人間には害がないというわたしの出した結論は、理由はなんであれ、一部の人間には受け入れがたいものだったのだ。
(次掲書280ページ)

  ほかにも本書とマコーミック自身による証言との隔たりがみられるが、同じ題材を扱った複数のノンフィクション作品を読み比べる面白さがあった。

  それにしても残念に思ったのは、本書『ホット・ゾーン』をきっかけとした映像化の顛末である。「新装版への付記」として紹介されているが、国際的なヒットを飛ばした映画「アウトブレイク」(ワーナー)のほかに、20世紀フォックスが「本書の内容をできるかぎり忠実に映像化する」との主旨で著者のプレストンから映画化の権利を受けていたというのだ。出し抜かれた形のワーナーはフィクションで製作、「アウトブレイク」の公開を果たしたが、一方のフォックスはどういう事情からか製作を中絶してしまったのというのである。
  残念というのは、誕生した側の「アウトブレイク」という作品が単なる荒唐無稽なサスペンス&アクションに留まってしまっており、SFとしてもおよそ認め難いほどの駄作に思えたからだ。そもそも、感染症病原体の宿主の発見が即座に治療や流行の根絶に結びつくあたりは、それがクライマックスをなすだけにあまりにも稚拙なオチに心底ガッカリさせられた。しかもコレが大ヒットしたとは……。日の目を見なかったフォックスの作品がどのような内容を目指していたのかは知る由もないが、個人的に興味を覚える題材なだけに、この結果が無念に思えてならないのである(じつは、一度コレが言いたかった・笑)。

Level4

  本書『レベル4致死性ウイルス』(ジョーゼフBマコーミック&スーザン フィッシャー=ホウク/武者圭子訳・早川書房)は以前にも紹介したが、前掲書との関連ということで再び取り上げてみた(映像化という点では、むしろこちらを熱望したい)。

  日本語版タイトルをみると、『ホット・ゾーン』同様にセンセーショナルな激症感染症ばかりが題材として想像できそうだが、ときに沈着冷静ともとれる語り口は、「Virus Hunters of the CDC」という原題のほうがより相応しい感じだ。エボラ出血熱はもちろん、同じく重篤な感染症であるラッサ熱やクリミア・コンゴ出血熱、そしてHIV。あるいはパキスタンのある町で60%を超える陽性率を示したC型肝炎など、新興感染症の根源や流行にあたっての人為的要素といった驚くべき事実が冷静でありながら十分に起伏を持った文章によって報告されているのである(訳者および原著執筆者に名を列ねるレスリー アラン ホービッツ氏の力もあるのだろう)。

『ホット・ゾーン』との対比で興味を惹いたのは、肝心の疫病について異なる見解がみられるからである(ただし、本書の上梓は『ホット・ゾーン』のおよそ2年後の1996年であり、かつ現在まで18年近くもの時間が経っている。したがって、両著間のタイムラグやその後に新たな事実や見解が世に出されていることも考慮しなければならないが)。
  そのなかでとりわけ重要なのが、『ホット・ゾーン』で“主役”を務めたエボラ レストンの感染径路をめぐる考察ではないだろうか。『ホット・ゾーン』ではその病原体が空気感染することを基本的に肯定しているように読める。たとえば、ユーサムリッドの学者の証言としてのつぎのくだり──。


  エボラ・レストンのほうが(引用者注:ほかのエボラウィルスとは異なり)空中を伝う何ならのルートで感染することはまず確実なんだ(中略)空気感染したことは、まず間違いないと思うね。
(前掲書412ページ)

  一方、同種のウィルス──現場はレストンではなくテキサスの施設だが──について、収容サルに施すツベルクリン検査の注射順などから感染径路をほかのエボラウィルスと同様の体液径路である旨を示唆している。


(1本の試薬を連続して7匹のサルに注射していたため、使い回しされる前の針が使われていた8(1)番目のサルだけが1匹残らず罹患しなかった──8番目のサルに予め感染していた個体がなかったという偶然もあったのだろう──ことから)注射針の使い回しで広がるということを示す、なによりの証拠だった(中略)一部で言われているようにこのウイルスが空気感染するのなら、最初のサルも8番目のサルも、不幸な仲間たちと同じ運命をたどったはずである。ケイト(引用者注:疫学者)はのちにこの調査結果を、ボストンで開かれたアメリカ熱帯医療衛生協会の会議で発表した。
(本書275ページ。ただし、同年2月にサルを使った実験での飛沫感染が発表され、CDCも空気感染することについて「疑いようながい」とのコメントを出している:『ウイルス感染爆発』NHK「エボラ感染爆発」取材班/NHK出版208ページ)

  としながらも、前者では4ページ後でエボラウィルスの空気感染については「厳密に言えば、いまのところ想像の領域に入る」としている一方で、後者の説明では、レストンのサルが(重点的に?)肺を冒されていた(前者による)ことや感染した飼育員が血液に触れた覚えがないことの説明がしづらいかもしれない。

  いまひとつは『ホット・ゾーン』で語られるエボラ出血熱の病状だ。いわく「炸裂」。いわく「(臓器の)融解」である。しかし、不思議なことに何冊か読んだこのテーマの著作でほかに「炸裂」して死ぬ患者の記述がみられない(『ホット・ゾーン』や「アウトブレイク」に便乗した類のエンタテイメント本はいざ知らず)。病状が進むと、嘔吐や下痢、歯茎や消化器官からの出血が起こるというが、本書『レベル4〜』によれば、「出血もよく見られるが、ひどい出血が必ず見られるというわけではない」ともいう。さらに本書におけるつぎの記述──。


  近年、話題になったフィクションやノンフィクションに書かれているのとは違って、患者の臓器は「融解」したりはしない。実際、解剖してもほとんどの臓器は正常な形を保っている。
(340ページ)

  これが、アフリカにおける“アウトブレイク”の爆心地で患者の治療にあたった医師の見解である。
「炸裂」については日本語と原著米語とのニュアンスの違いがあるのかもしれない。だが、改めて読み返した『ホット・ゾーン』の記述にはややセンセーショナルに焦るようなきらいがありはしないだろうかとも思った(くわえて、『ホット・ソーン』最終章「第4部」で著者自らがエボラの親戚であるマールブルグ病の発生地・キタム洞窟を探訪しているが、わざわざなにをしたかったのかがいまひとつ伝わってこない)。

  ……などと、つらつらシロウトなりに感想を抱くのではあるが、今日の表題にしたように旅の本として読むものまた面白いのである。広義の“探検”。地球もまだ捨てたものではない(そういえば、旧ザイールの密林に浮かぶ村Gbadoliteを『レベル4〜』ではじめて知ったが、希代の独裁者モブツの故郷にして黄金のドームをもつ飛行場があったという……SFのような村。嗚呼、行ってみたいなァ……)。

  ついでながら、『レベル4〜』ではエボラ出血熱の臨床現場における予防ついて「簡単な物理的障壁を設けるだけで、ウイルスの伝播は阻止できる」とある。とすると、今般の大規模罹患ではその「物理的障壁」を設けることすら十全に機能していないということなのだろうか。マコーミック博士の最新のリポートを読んでみたい。

  ……ィ夜中に一杯ひっかけながら長々とやってしまった。いったいオレはなにが言いたかったのだろうかと著者に向けた疑問を自問……まっ、いいや(笑)。


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2013.12.20

机上旅行あれこれ...の巻

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  伝説の大韓ドラマ「砂時計」のOST(サントラ)CDをゲット。どういう事情からか再発売されたらしく、なんの気なしにネットショップを検索して偶然に遭遇した次第。
「砂時計」(1995年)は光州事件や軍事政権下の当局と大衆、当局や財界にはびこる汚職など韓国現代史の闇と民主化運動を軸に描かれた社会派ドラマ。韓国語版ウィキによれば最高視聴率は65.7%!  硬いテーマ設定ながらも、巧みなキャラクター配置や筋書きの巧妙さによってエンタテイメントとしても十二分に楽しめる作品に仕上がっている。個人的には女性新聞記者・シンヨンジン(イスンヨン)にちょっと(笑)。

  しかしそりゃいいとして、「砂時計」で主役3人のうちのひとり検事・カンウソク(パクサンウォン)とウソクと結婚したチョンソニョン(チョミンス)とが、つい先ごろまっ昼間に放映されていた「私の娘コンニム」(2011年)で共演していて驚いた。ちょっとややこしい間柄というか、「ぁあ、あのふたり、『砂時計』で結婚したはいいけれど、結局はうまくいかなかったのかァ……」という関係だし(もっとも、「砂時計」のあの腺病質で笑顔に乏しい女性とこのおっかさんとが同一人物だってことには調べるまで気づかなかったが)。
  で、そのチョミンスだが、オレと同じ1965年生まれなんですよ(日本式学年ではひとつ上になるが)。そういう役者がなにをやっていたかというと、あのハンイェスルの恋人役のおかんだったりするからタマラナイ(クリスマスに雪は降るの?)。そうか。いぇすらにとっては“義母(候補)”か。イェスルはむすめか……。オレと同い年で……(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)

Twotwo01

  コレも「砂時計」とまったく同じ経緯で入手したTWO-TWO(トゥートゥー)の再発売盤。第1集にして彼ら最大のヒット曲「1と2分の1(일과 이분의 일)」入りの盤だが、大韓にくり出すたびに探し続けてきた末の待望の邂逅でごぢいMASITA。親しみのもてるいい曲ですよ。ええ、ええ(下記リンク)。

youtube 일과 이분의 일──투투

Wildcats01

  で、コレもまたまた同じ経緯でわが手中に落ちた「ワイルドキャッツ(들고양이들=ノラネコたち)」の復刻盤。「マウムヤケソ(心弱くて/마음약해서)」の大ヒットで知られる伝説ユニットである(著作権の手続きを踏んでるのかねぇ……といらぬ心配をしてしまいそうな曲も入っているが)。この「マウムヤケソ」。晋州から海印寺に向かうバスのなかで、運転手と一緒に歌って盛り上がったもんだ(笑)。オススメの大韓ドメスティクナンバーでごぢいます。

youtube 마음약해서──들고양이들

wobblyなんと、あの“オーロラ”がカバー(笑)。一本取られMASITA네。
youtube 마음약해서──오로라

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  話かわりますけど。年の瀬ということで(関係ないか)旅の本をいくつか。

  筆頭は尊敬する畸人・藤原新也氏の『台湾 韓国 香港──逍遥游記』である。
  ここはポンヤンメンクンハギのタクサジョンです。ふむふむ。で、その現場をいとも簡単に調べられるようになってしまった現代という時代もなんだが、ついついそんな下世話な“愉しみ”に耽ってしまうオレも、なんともつまらん存在だなぁ……などと自嘲してしまうほかはない。往くのは簡単である。東ソウルバスターミナルからバスが直通してるんだから(笑)。

  その濯斯亭は蛇行するチュポチョンの川べりに建つ亭子とその周辺とを指すそうで、ちょっとした観光名所になっているらしい(風景的には寧越の清冷浦や丹陽あたりの南漢江を想像されたし)。そんなところに、単に「鳳陽」という地名に導かれてひとり訪れてしまった著者。もとい、堤川からなりゆき含みで到達してしまったというのが正しいか?  はたせるかな、「ポンヤンメンクンハギのタクサジョン」そのものについての記述は行間に漂うのみなのだが、異国のひとり旅で夜に向かってゆくそのひとコマに浮かび上がった人いきれや体温、そしてにじむ灯が旅のさなかへと誘ってくれるようだ。
  それはそれとして、厳冬期に訪れたらシビレるだろうなぁ。カッチンコッチンに凍りついててо(^ヮ^)о

  で、この「地名」については香港の巻でも語られている。詳細は割愛するけれど、グっときたのがそのあたりだったりするのだ。
  同じ漢字圏ということもあって、わが国はもちろん、韓国(北朝鮮もだが)には、その地名の響きだけで惹かれる土地が数限りなくある。そんなきっかけから訪れた土地を挙げれば、秋風嶺やタンクッ=土末(半島最南端)、安眠島(主目的だったコッチ=花地は天候の関係で先に見送ったが)、道渓、鐵岩あたりがその代表格。半夜月だの逍遥山、甕泉、夢灘などといった駅は、ホントにそれだけのために降りてみたようなものだ。藤原氏が本文に記した堤川や鳳陽も悪くないし、漣川や華川、寶城、三千浦なんてのもいい。まだ訪れてはいないけれど(通り過ぎたところはある)紫味院や佳水院、報恩、星州、阿英、雲峰、東魯あたりにもソソられるが、わりと最近になって皇帝島(황제도)なんていう大物を発見してしまい、目下困って いるところ。

  閑話休題。藤原氏の韓国旅には、むしろ本書で綴られていないところにも興味が湧いて仕方がないのだが、どうしたものか(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)

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  韓国関係では、『ルポ・朝鮮最近史』(江口浩著・現代史出版会)も読みごたえのあった1冊。前半が韓国に、後半が北朝鮮にあてられているが、これはもう自由な取材というものがどれだけ大切かというその証言集ともいえそうだ。すなわち、軍事政権下で制限があったとはいえ比較的自由な取材や探訪が可能であった韓国編では生々しい現状(事実)が詳細に綴られているのに対し、常に監視人につきまとわれ、“取材”の多くを官製のおしぎせによざらるをえない北朝鮮編では、その後に明らかにされつつある事実や真相との間にある種の乖離が生じざるをえなかったからだ。

  韓国編では、とりわけ金大中氏をめぐる大衆の躍動、その一連のできごとがリアリティと迫力をもって迫ってくる。そして憲法を反故にしてまで続けられた朴正煕政権下における言論の封殺や国内外の混乱。「漢江の奇跡」の川べりに浮かび上がる発展の矛盾と犠牲。発展の利益をほしいままに独占する一部階層と低賃金と劣悪な環境にあえぐ庶民との対比。そうしてできあがった金持ち街の通称「泥棒村」……(わが国の「高度成長」にもさまざまな暗部はあったが、「漢江の奇跡」のそれはわが国のそれとくらべてあまりにスケールが大きかったようだ)。いみじくも、韓国現大統領の父親がどのような政治・所業を──それも自国民や同胞に対して、そして確かに経済の発展はみたけれども──してきたのか、その一端が本書によって明らかにされている。

  一方で、北朝鮮編では筆の勢いが乏しく感じられる部分が少なくない。これには、後述する萩原遼氏が語るところの「善意のウロコ」によって目が曇っていたということも少しはあったのかもしれないが、それ以上に十全な取材が事実上不可能であった事実に注視すべきではないだろうか。
  許されるのは玄関取材。入手できるものは“公式資料”がもっぱら。なにしろ監視人抜きで散歩することすら許されなかったというのだ。そうして生殺与奪の権利を握っている当局側が、都合の悪いものはみせないに決まっている。だが、それでもなお事実、それも当局にとって「秘密」にしておきたいそれが各所でもれ伝わってくる。それこそがジャーナリズムだ。
  本書は1973年刊であり、「最近」とはいっても現在とは状況が異なる部分はあろう。しかし、わが国との関わりを含めた隣国の一端を知る貴重なルポルタージュとはいえないだろうか。

  やや関連して、リスペクトする弁護士・白川勝彦氏のコラムをリンクしておこう。
「永田町徒然草・北朝鮮のような国なるぞ。」

「善意のウロコ」:まだ社会主義が信じられていた面が少なからずあった時代である。軍事政権の南に対し“社会主義”を目指すとされた北を支持する層も少なくはなかった。もとよりこれも北当局やとりまきが情報を統制したことも大きい。しかしそんな欺瞞も、事実がまのあたりにされればただちに化けの皮がはがれる。たとえば──

「かれが清津港に着いた直後、宿舎から出した手紙には便箋一枚にただ一行だけ『百聞は一見にしかず』とだけ書かれていました」
『北朝鮮に消えた友と私の物語』萩原遼著・文春文庫、256ページ。「かれ」は、在日朝鮮人帰国運動のさなかに希望をもって「渡北」したある若者。引用部分はその肉親による証言。「かれ」は北朝鮮に着いて早々に騙されていたことに気づいたのであった)
  ──という証言もそのひとつであろう。

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  朝鮮半島関連では、萩原遼氏の著作もイチオシである。代表作といえるのが本書『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』(文春文庫)で、朝鮮民主主義人民共和国の南侵によって開始された朝鮮戦争とその表裏の事実を解きあかした力作である。関連して『朝鮮と私 旅のノート』(同)があるが、当時の朝鮮半島の情勢と合わせて、アメリカ合州国の情報収集能力、そしてその行使の手段なども窺い知ることができる。そうして明らかにされた一連のアメリカの所業を“謀略”と片づけるのは乱暴かもしれないけれど、現在のさまざまな情勢と照らし合わせてみることもムダではないだろう。
  ともあれ、ルポルタージュの醍醐味が凝縮されており、購入以来わが枕元の友として常駐しているのがこれらの著作群なのでごぢいます(先の江口氏のルポも、萩原氏の引用により知ることとなり原典として入手した)。

  萩原氏の著作のなかでは『ソウルと平壌』(同)も面白い。著者が「赤旗」特派員として駐在した平壌の様子や、その後に訪問したソウルオリンピック当時のソウル、そこにおける庶民の姿などが巧みな筆致で描かれている(反共法のある韓国において、日本共産党の機関紙記者が公式に訪問したという点にも注目したい。しかも、オリンピック取材に関し、日本側からおそらくは“アカ”ということで差別された反面、韓国側から便宜をはかってもらえた事実なども興味を引く)。江口氏のルポと合わせて読み解きたい1冊だ。

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  一方でサイアクだったのがコレ。『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』(イザベラバード著/時岡敬子訳・講談社学術文庫)である。貴重な証言が得られるに違いないと思って購入してみたのだが、正直に記せば半ばまできたところで読むのを放棄してしまった(本そのものはまだ廃棄してないが)。

  綴られているのは、まさに著者自身がみて出会った事実であろう。そして(おそらくは)包み隠さず自らの所感を含めてそれらのできごとを記しているに違いない。だが、異文化の国、異なる民族の土地を訪れたこの女性は、いったいなにがしたかったのだろうかとも思う。
  やれ「汚らしい」だの「みすぼらしい」だのの相手の卑下した所感やら愚痴やらの羅列(冗談でなく、どこを開いてもそのテの記述がある)。西洋人との接触がほとんどなかったに違いないひとびとの純朴な視線から不快感ばかりを覚える旅人とは、いったい何ものなのだろうか。そんななかにも興味を覚える記述はけっして少なくはないが、そうしたあまりに稚拙な表現に著者自身が頼らざるを得なかったため、せっかくの事実がなし崩しに他愛のない感想へと転訛してしまっているのだ。
  文章にあって書き手の所感(ときに偏見や誤認もあろう)があるのはあたりまえなのだが、それらを表現する基本的な技術をこの「英国婦人」はお持ちでなかったのであろう(逆に「すばらしい」とか「とても気持ちのいい」といった“評価”も多いのだが、じつはそんな言葉でばかり物ごとを表現することそのものが稚拙さの現われなのである──自戒を込めてだが)。

  で、ページをどこまでたぐってもそんなのばかりなので、いい加減ヘキエキとしていたところ、とうとうこの「英国婦人」は異民族の伝統的音楽にまでその一方的偏見をぶちまけてしまった。そして飛び出したつぎの記述。

<朝鮮人のほうでもその隣国の日本人と同じく、西洋の音楽がさほど好きにはなれないかもしれない。また同じ理由で、わたしたちが音楽で表現する概念は彼らにはよくわからないかもしれないのである。>
(215ページ)

  大きなお世話というものだ。ここでバカバカしさの極みを確信して本をほうり出した。
「残り少ない人生をこんなことに使いたくない」──というワケだ(笑)。

  このご婦人は西洋の平均律との違いまでは見抜いている。ところが、そこを音楽作法(システム)の違いとして探究する姿勢を申し訳ていどにみせながらも、「耳ざわり」だの「うんざり」だのといった語句に頼り切って文章を綴ってしまった。繰り返すけれど、そんなあたりにこの女性には著述家としての致命的欠陥があるのだが、どういう次第かわが国でも翻訳されロングセラー化しているように、商売人としての才能はお持ちだったということだろうか(奥付によれば「イギリスの女流旅行作家」。「作家」というのは文章書きのことのようだが、こんな職業「旅行」者もいたワケか)。つまらない本に1732円も払ってしまった。ウォンなら約1万7000ウォン(買った当時のレートでは2万ウォン近かったハズ・笑)。授業料と思ってあきらめるほかはない(筋違いを承知で悪態をつくならば、このご婦人の祖国・大英はどういう国だったか。そのあたりを、たとえば『STILL A PUNK ジョン・ライドン自伝』〈竹林正子訳・ロッキング・オン〉や『ロイ・キーン 魂のフットボールライフ』〈自伝/東本貢司訳・カンゼン〉などから垣間見るのも面白い。また後述の医師・スーザンフィッシャー=ホウク女史〈大英出身〉は、女性にとって差別的だった祖国の状況を自伝的に証言している)。

※本書は、本来ならば『朝鮮紀行』というシンプルなタイトルになってもいいのだが、ここに「英国婦人の〜」とあるのは、出版社側の都合でむしろそうつけざるをえなかったがゆえという可能性もある。なお、ここで取り上げたのは原典ではなく日本語訳であり、訳によっては異なる日本語への置き換えができるかもしれない。また、彼女の文章表現は、個人的資質とともににイギリス語の習慣が多分に影響しているのかもしれず、この点はその方面の専門家にいずれご教示願えればと考えている。

※韓国探訪記の名著『ディープ・コリア(定本・豪定本・元祖)』(幻の名盤解放同盟著・青林堂ほか)にも「マヌケ」だの「わざわざ汚いところに」とった類の表現がみられるが、これは本書のそれとは本質的に異なる視点であり作法であることはいうまでもない。ここではその詳細は割愛するけれども、著者は「豪定本」のまえがきでつぎのように綴っている。

<「マヌケだなんだと書いて韓国をバカにしている」といった類のお叱りを受けることがある。もっとヒドイところでは「溜飲を下げました」てな励ましがあった。かような誤解や無理解には心底まいってしまう。>

  さしあたりは“溜飲”の示す意味。件の「英国婦人」の著書を高評価するひとのセンスはどうですかな?

Level4

『レベル4致死性ウイルス』(ジョーゼフBマコーミック&スーザンフィッシャー=ホウク著/武者圭子訳・早川書房)は、表題(原著では“LEVEL4:Vuirus Hunters of the CDC”)のとおり、ウィルス感染症を追跡する疫学調査の模様などを綴ったルポルタージュ。一般的には旅の本とは異なるカテゴリに置かれそうだがあにはからんや。スリリングな旅が満載の1冊なのである。
  著者はアメリカ合州国のCDC(疾病対策センター)の元研究員。ごく大雑把には、エボラ出血熱やラッサ熱、クリミア・コンゴ出血熱、そしてHIVなどを追跡、感染爆発の現場ではその対策にあたってきた医師らの物語だ。その現場はザイール(現・コンゴ民主共和国)やスーダン、ナイジェリアなどのアフリカ諸国をはじめパキスタンやアメリカ合州国など広範にわたる。そして、それらひとつひとつの現場が、ほどよく抑制の利いた文章で迫力満点に綴られているのである。10年ぐらい前、タマタマ本屋で遭遇して購入したものだが、あまりの面白さに今日まで何度読み返したかもわからない。

  ほぼ全編が“旅”にあるといっても差し支えないと思うが、たとえばザイールとスーダンにおけるエボラ出血熱の調査にあたった場面。この国境線を共有するふたつの国で、当時は希有だった疫病がほぼ同時に発生、そこでその関連や発生源をつきとめるべく、マコーミック医師が陸路で現地調査にくり出すこととなった。そのくだりをいくつか──。

<なにかの助けになるだろうと思い、その地域のミシュランの地図を携えていった。あとでわかったことだが、その地図は崇高なまでの楽天家が描いたもののようだった。地図のなかにある場所を探す以前に、その地図が信じられるかどうかという挑戦を受けているようだった。おまけにその地図に書れた忠告が、いっそうこちらの不安を募らせる。「道がはっきりしないところでは、ガイドや進路指示器が必須。そうした地域に、車一台で乗り込むのは、愚かな行為である」(中略)きわめて興味深いつぎのような情報。「国境付近については、必ずしもここに描かれた通りでない可能性もある」>(59〜60ページ)

  そうしてザイール人ガイドとともに乗り込んだ北部地域ではどうだったか?

<ところが、つぎの村にきてみると、食物はまったくなかった。市場と言えるようなものはなく、店には物がなかった。(中略)この地域にくるにあたっては、かなり厳しいスパルタ的な状況は覚悟してきた(中略)。わたしはそれまで、軍の食料には手をつけないできた(引用者注:調査にあたって非常食を支給されていた)。恐かったのだ。この三十年ものの食料の缶詰の一缶が痛んでいて、食べられないとわかったらどうなる?  残りのすべての缶も、おそらくすべてだめになっているということだ。そうしたら、食物はなにもないと宣告されたことになるではないか。>(65〜66ページ)

  そうした状況を乗り越え、どうにかスーダン側に辿り着くことに成功したわけだが、じつはそれ以前からしてザイールに入ることすらすでに冒険だったのだ。すなわち、直前に活動していたシエラレオネから、国交のないザイールまで短絡しようと試み、当然そのためのビザ取得もままならない状況。
  まず、シエラレオネの地方から
<シエラレオネ航空の第一次大戦当時の危なっかしいフォッカー機に乗って>フリータウンに到着。ところがそこから先のフライトがない。こうした場合、いちどヨーロッパに出て、そこからあらためてアフリカの目的国に入るというのがセオリーだというのだが、そうしない場合のアフリカにおける飛行機の運航状況とは、つぎのようなシロモノであったらしい。

<アフリカ大陸では、運航予定などおかまいなく、自分たちの都合のよいときだけ飛ぶナイジェリア航空とガーナ航空の二つが、それでももっともあてになる飛行機だと言われている。>
(49ページ)
  結局、コートジボアールのアビジャンにまず飛び、そこからカメルーンのドゥアラを経てザイールのキンシャサ入りを果たしたのだが、こんなに面白い冒険活劇がそうそうあるとは思えない。

  このような調子で、全編にわたりスリルのある読み物に仕上がっているのだが、もちろん疫学的な興味も満載されている。とりわけ、パキスタンにおけるC型肝炎の調査や、アフリカ中央部でHIVの起源へと迫るくだりなどは、比較的ポピュラーな疾病なだけに、興味津々といったところかもしれない。
  もとより、本書を読んでアフリカに往きたいと思うか思わないかはひとそれぞれだろう(笑)。なお、マコーミック医師と同じくしてエボラ調査にあたった模様などを描いた『ウイルス・ハンター』(エドレジス著/渡辺政隆訳・早川書房)にも、現地のシビレる状況が綴られていて興味がつきない(ただし、後者はやや読みづらいきらいがある)。

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  つぎの『ウイルス感染爆発』(NHK「エボラ感染爆発」取材班・NHK出版)も同種の感染症モノ。前書が当事者によるルポだったのに対し、こちらはジャーナリストがその現場のひとつひとつを洗いなおしたものだ。いうまでもなくこちらも旅の明け暮れ。ザイールを筆頭にスーダンやベルギー、アメリカ合州国へと関わった人物や物的証言などを追い求めている。研究者らの躍動や驚愕、悩みを、あますことなくあぶり出した快著である。
  とりわけ、感染爆発の現場で、証言などをもとにそのときの様子を再現したくだりや、ザイール人医師が苦難の末に送りだした血液サンプルをめぐる紆余曲折などの場面は迫力満点。なによりも、綿密な取材とそれを可能にしえたスタッフらの熱意があればこそ、本著(もとはテレビ番組用の取材だったとしても)のような生々しいドキュメントの上梓ができうるのだとあらためて思った。

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  さて、このふたつのドキュメンタリーに共通するのがアフリカ、それもモブツ政権下のザイール(現・コンゴ民主共和国)だが、この国と音楽に魅せられて単身乗り込んだ日本人もいる。たとえば──。
「jaki's homepage」

  はじめての外国旅行先がザイールだったというJAKI氏によるスリリングな報告が満載のサイトだ。こんなに面白いサイトも珍しいが、JAKI氏はコンゴなどで親しまれているリンガラに魅せられたミュージシャン。サイトで紹介されているアルバム「カーリー・ショッケール◆ワニの王国」をだいぶ前に購入したところ、これまたかなり「メリメリ」っときたо(^ヮ^)о  熱帯の夜に心身まるごと包まれたくなってくる。

  あと数冊用意しておいたけれど、ついつい長くなりすぎたので今宵はこのへんにしとうごぢいます。


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