2023.01.08

内憂2023・・・の巻

Dsc_7763b

 昨年末、インスタグラムにアップした内容と重複しますが、年頭にあたって「内憂」という言葉が我が祖国にまとわりついているように思われてなりません。

Dsc_7768b

 画像は、ショスタコービチの交響曲第8番のスコア。

Dsc_7769b

 この演奏時間およそ1時間に及ぶ大曲は、俗に「戦争交響曲」とも呼ばれています。冒頭からすでに不安感に満ちた楽想が繰り広げられてゆきますが、ソナタ形式をベースにした第1楽章の展開部は、いままさに迫りくる戦争の実像と恐怖とが音楽によって描き出されているように感じられます。

Shostakovich_no8_01b

 この上の楽譜はその展開部導入後ほどなく現れる箇所を大譜表にしたものです。不協和な響きと低弦で刻まれるリズムが、やがて大きなうねりとなって世界を席捲してゆく。ショスタコービチの諸作品のなかでも、とりわけ傑作に部類できるのではないかと考えています。
●ショスタコービチ交響曲第8番第1楽章展開部から



Dsc_7756b

 ひとつ前に作曲された交響曲第7番は「レニングラード」の副題を持ち、ナチスドイツに包囲され、生活物資も絶たれるなかに完成し、ナチスによる総攻撃が予告されるなか催された演奏会は、市民や前線の兵士をも勇気づけたと伝えられています。
 

Dsc_7759b

 しかし、同時にショスタコービチが音楽に託したのは内憂に対する抵抗だったことは、注目すべき事実ではないでしょうか。それは7番につづくこの8番にも込められているに違いありません。
 ときはスターリン時代。ショスタコービチは、ほかならぬ祖国にもまた本当の敵が顕在していることを確実に見抜いていたのです。
 そしていままた、その内憂という言葉が、無視できない存在となっているように感じてなりません。ほかならぬ我が祖国において……。
 

Dsc_7758b

 この交響曲第8番のラストは、ハ長調の主和音、すなわち「CEG(ドミソ)」の透き通った和声に収斂され、遠く消えゆくように閉じられてゆきます。そこでそこはかとなく第3音(E=ミ)が、やさしさとともにその後に続く世界を予言しているかのような効果をもたらしています。そこに託された作曲者の本当の思いを感じ取れるような気がしてなりません。


 

| | コメント (0)

2022.05.07

酷評「酷評辞典」・・・の巻

Barizougon01

 本を買ったはいいが、ときおり「失敗した是!」と“散財”を悔いることもあるのが世の常。
 本書『クラシック名曲「酷評」辞典』(ニコラス・スロニムスキー編・藤村奈緒美訳/YAMAHA)も、残念ながらそんな1冊であった。

 この本、だいぶ前に買ったものの、すっかり忘れていたのだが、なんで忘れていたかというと、ほんの少しばかり目を通しただけで「もういいや」と本棚に突っ込んだままになっていたからであった。

 イヤな予感は最初からあった。
 ネット書店で遭遇し、「面白いかもしれん」と上下巻を注文しようとしたのだが、第六感が働いたといおうか、とりあえず上巻のみを購入。届いた本をさっそく開いてみれば「ぁあ、やっぱり……」と2090円ナリの出費に憮然とさせられたのでありMASITA。

 内容は、このオビに記されているとおり。当時の音楽新聞などに掲載された楽曲や演奏の論評のなかから、酷評ないしそれに近いものを集めて編集したものである。それそのものは面白い発想で、個人的にこの上巻(頭文字B~P)であればショパン(C)やバルトーク(B)などに興味がわくし、下巻(Q以降)だとショスタコービチ(S)などが気にかかる。

 だが、じつはそうした個人的にお気に入りの作曲家については、すでに知っている「酷評」も多く、すべてではないにせよとくに目新しい「事実」が編纂されているワケでもないのであった。また、とりたてて関心もなければ、その楽曲すらほとんどないしまったく聞いた覚えのない作曲家だったりすると、せっかく書かれてあることの話半分も理解しがたい(これはまぁ読者であるこちらの責任なのだが…)ということになってしまう。言い換えると、通読するような本でもないかもしれないのだ。

 くわえて、上下巻を揃えると4000円を超すことになるのだが、これはひとえに巻末──といっても全238ページ(奥付と著訳者紹介の2ページを除く)中55ページにもわたるのだが──にある索引(そのおよそ半分のスペースは「罵倒語索引」)によって嵩を増したためと見て取れるのだ。下巻の索引ボリュームは確かめていないが、こんなものでページを割くヒマがあるのなら、本文に譜例を挿入するなり、当時の音楽新聞を「図版」として掲載するなりすれば、よほど資料的価値が高まるというものだ。こんなザマなので、わざわざ上下巻にして利益を上げるために「索引」で割増したのではないかと疑いたくもなってくる。

 もちろん、集められた「罵詈雑言」批評にはユニークなものも多い。

 バルトーク ベーラの欄には、

>(前略)作曲家がブーツを履いて鍵盤の上を歩き回っている様子を表わしているのかと思うような、無意味な音の集まりで構成されていることがわかるだろう。(中略)鑑賞に耳が必要なものはない。(中略)バルトークの作品は、単なる排泄物にすぎない。(69ページ)

 などと、ケーセッキ安倍にでも言ってやりたい罵倒が連ねられていて苦笑してしまう(もっとも、オレは引用した意見には賛成しませんがね)。

 また、米国の前衛作曲家・ヘンリー カウエルに対しては、

>カウエルは、音群を発明したといわれている。ピアノを拳と前腕を用いて鳴らすのだという! 何を遠慮しているのだろう? 尻を使えばもっとたくさんの音が出せるではないか! (122ページ)

 という次第。

 ここで「音群」としてあるのは、一般に「トーンクラスター」と呼ばれているもので、ようはこの「酷評」で触れられているような演奏をいちおうは指す。

 ついでの話。そんな役に立つのか立たないのかわからないような豆知識があったおかげで、昨今のコロナ騒動で用いられている「クラスター」の意味は即座に理解できたものだが(笑)、これだって単に「集団感染」と呼べばいいだけの話ですな。このように、ごく最近では「トリガー条項」だのなんだのと、ワケのわからん新種のカタカナ語を用いる「報道」を見るにつけ、「こいつら、なにか誤魔化したいことでもあるのか」と疑いたくなってくる。ちなみに、大学浪人時代からの友人のラッパ吹きも、このトーンクラスターを思い浮かべたというから、豆知識だってバカには出来ませんね(笑)。

 話を戻すと、編纂されている罵詈雑言は確かに興味深く面白いものも多いのだが、にも関わらず本書に対しこうして罵詈雑言ばかりが浮かんでくるのはなぜか。編者あるいは原著のせいだろうか。それとも日本語版(本書)の編集のせいだろうか。一読者の感想にすぎないが、こうした罵詈雑言批評の背景──たとえば、当時の音楽スタイルや流行、そんななかでの作曲家の位置づけ、批評者自身についての人物像や評価など──とともに紹介されていれば、学術的にも面白い編纂物になったのではないかとも思うのである。

 まぁ、なんにしても個人的には大失敗の巻であった。御無礼!


 

| | コメント (0)

2022.03.02

ウルトラセブンがシューマン騒動を起こした(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)・・・の巻


 3週間ほど前だったか、友人の作曲家でらTから久々──たぶん1年ぶりぐらい──に電話アリラン。

でらT:もしもし?

オレ:久しぶり。ところでさ、ありゃぁなんだって“フォルテ”なんだ? “フォルティシモ”じゃなくて。

T:へっ……(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)?

オレ:シューマンのピアノ協奏曲の冒頭なんだがね(笑)。

T:アレはオレが書いたとしても“フォルテ”にするな。

オレ:でもなぁ、あの最初のE音のトゥッティもそうだし、直後のピアノソロの和声とリズムの毅然としたところからするとねぇ……。

T:そもそも“フォルテ”なんて主観的な問題じゃん。それと、ピアノソロだけを見れば弱起なわけだし。──以下略。


Sevenc01

 某局で放映中の「ウルトラセブン」がいよいよ佳境。その最終回の見せ場といえば、「よっちゃん、あたし魔法使いなの」もとい、ダンがアンヌに自らの正体を告げる場面でありましょう(3月6・7日放映予定)。

 その場面で使われているシューマンのピアノ協奏曲がなんとも効果的というのもファンには有名な話。いつぞや紹介した『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』(青山通/文春文庫)で件の演奏がディヌ リパッティ(ピアノ)とヘルベルト フォン カラヤン(指揮)、フィルハーモニア交響楽団による録音だと知ったのだが、「それでは……」とネットショップを検索したところ、そのリパッティ&カラヤンの演奏がなんとウルトラセブンのジャケットで世間に流布されていることが判明。さらにこんなCDが出ていたことを知り、「まずは」ということでさっそく購入したのであった。

 すると、このブツが届いたまさにその日のィ夜、でらTから電話がかかってきたワケで、こちらとしては格好の餌食。久々に電話をかけたってのに、前置きもなくいきなりわけのらからん話題を振らるハメとなるワケだ。

 しかし対するでらTもさるもの。ほんの数秒後にはなにごともなかったかのように議論になってるんですからねぇо(^ヮ^)о まっ、ヤツとしては「またか……」というところだったのかもしれないが。


Schumann01a

 で、その問題の「フォルテ云々」は冒頭のピアノソロ(上画像=ピアノソロのみ抜粋)。いきなりの増3和音(コードネームでいうとCaug)は臭おっとシューマンの好むところ──パリ音楽院などの和声学でも「シューマンスタイル」として認知されている──。ここでもある種ショッキングな効果を産んでいるのだが、それだけに「フォルテ」というやや控えめな演奏指示──しかも2音目にスフォルツァンドがついているではないか──に違和感を覚えたのであった。

 もっとも、あらためて件のCDに収められているリパッティの演奏を聞いてみれば、無闇な強奏にはもちろんなっていない。

 一方で、この楽曲全体で見てもフォルテ以上の強奏指示は第1楽章では再現部の移行部に1カ所とカデンツァの入り部分に1カ所。たったその2カ所にすぎない。以降は第2楽章では皆無、終楽章では5カ所にフォルティシモが見られるが、全体的に控えめな印象なのである。

 では、シューマン自身がそんな控えめな表現を好んでいたかというとそういうワケではなく、すぐ手元に引き出せた「クライスレリアーナ」や「ファンタジー」などを見ても多彩な強弱記号が用いられている(「クライスレリアーナ」の冒頭では「ピアノ」による左手の分散和音に対し、右手の旋律側に「フォルティシモ」が施されていて興味を引く)。

 もっとも、そんなことが気になりだすと、曲頭のAllegro affettuoso(速い速度+情感豊かに)のほかになにか発想標語が記されてあってもいいような気もする。第1楽章全体のムードとしてAllegro affettuosoはふさわしいと思うが、この冒頭の効果的なパッセージに対するシューマンの本音めいたものが、もっと楽譜に残されていればよかったのにという気もするのだ。


Schumann02d
 その冒頭とあわせ、セブンとパンドンが取っ組み合いを繰り広げている最中の曲相(上画像=提示部第1主題から第2主題への移行部の弦楽器パートを大譜表に書き換え──後日談:と思い込んでいたら、この曲が流れたのはマグマライザーが地底を敵基地に向けて驀進している場面であった。やはり30年近い年月は重かったようだ・笑)が素晴らしくマッチしていて「カッチョエエ!」と思うのだが、いかがだろうか。なお、以降部のこのパッセージは提示部ではフォルテなのだが、再現部ではフォルティシモがつけけられている。

 それにして、も。シューマンもまさか21世紀になって自分の曲がこんなCDにされるなどとは夢にも思わなかったに違いない。しかしそれを言うのであれば、オレ自身がこんなに真面目くさって臭おっとシューマンの楽曲についてあれこれ出任せをするなんてことも、かつては考えにも及ばなかった。

 作曲家でらTは語る。
「そういえばさ、学生のとき、オレがシューマンを弾いたら怒って帰っちゃったことがあったよな(笑)。

 う~ん……。そんな「失礼」なことをした覚えはないが(笑)、そのとき弾いたってのが「ウィーンの謝肉祭の道化」だったそうだから、そういわれればそうこともあったかもしれんと思わないでもなし。

 ついでながら、あの西村京太郎御大が「オレ、シューマンが嫌いなんだよ」と語り、しばし盛り上がったというのはステキな思い出(なんだってそういう話になったのかさっぱり思い出せないのだが……)。

 とはいえ、近年になると、その楽曲よりもシューマンという人物、言い換えると人間シューマンに興味を抱くようになってきた。ベートーベンへの思いや同時代にならしていたショパンやリスト、ブラームス、メンデルスゾーンらに対する視線などなど。シューマンならではの人間味溢れる不器用さもあって、その生涯に興味をそそらないではいられないのである。

 ともあれ、「ウルトラセブン」の最終回を飾ったピアノ協奏曲という出来事を含め、タイムマシンでもあれば本人に感想を訊いてみたいものである。

 などと言っていると、「そんなに気になるならできないわけでもないんだ」などと口走ったあとに「しまった!」という顔をするヤツがいるんですよ。

 もちろん、こっちとしても聞き逃すワケはありませんわな。

「いまなんと言った? あるのか、タイムマシンが?」
「……なんの話だ?」
「しらばっくれても遅いぞ」

 とかなんとか、相手はとぼけきれずにタイムマシンが実在することを白状させられることに。困ったのはその存在を知ってしまったオレのほうでもあるが、どうにかその知人を口説き落とし、その実在するというタイムマシンを発明したという某老教授との面会に成功した。

「なんだって外部者にもらしだんだ?」

 苦虫をつぶしたような顔(というより、モロにぶつしている最中に見えた)で知人を叱責する老教授。

 オレも恐縮するフリをしながらあれこれ聞きだそうとするのだが、
「まぁいい。そこに座りなさい。これはな、完全な国家秘密なんだ。このことは黙っていてやるから、さっさと忘れてくれないと、君たちが危ない目に遭うことになるぞ」
 と、いささか恐ろしい話になってしまった。

 そんななかわずかながら判明したのは、この「タイムマシン」とやらが可能なのは過去への移動のみで、未来への移動は不可能との結論に現段階でなっていること。さらにこれは当然の話なのだが、いったん時間旅行をしたが最後、現代に戻ってくることがおよそ不可能だということである。それはそうだろう。この「タイムマシン」が存在する程度の過去であっても未来へは行けないという話に加え、そもそもタイムマシンなんどありもしない過去に戻ってしまって、どうやって現代へ帰ってくればいいというのだろう?

「それにな。もし君がシューマンの時代に出かけられたとしても、どうやってその時代の日本からドイツまで行く?」
「…………」
「仮に行けたとして……、君はドイツ語は使えるのかね?」

 う~~ん……。老教授はその口調とは裏腹に、けっしてこちらを馬鹿にしている様子ではなかったが、言われてみればそのとおりとうなずくしなかったのである。

 まっ、オレが元気なうちにもっと十全な「タイムマシン」が完成したら、コッソリと相談してみよう。ともにその時代で生涯を過ごそうなどという相棒でもいてくれたら、それはそれでうれしいのだが。

 シューマンのせいで、とんでもないことになったものである。

※なお、この話は簡略版をインスタグラムにもアップしMASITA。


 

| | コメント (0)

2022.01.25

嗚呼、ウルトラセブン!・・・の巻

Ultraseven01

 あるとき、NHK-BSで「ウルトラセブン」を放映しているのを発見し、「懐かしい是!」とウレシがりつつ鑑賞している。

 残念ながら大好きだったメトロン星人の巻(第8話「狙われた街」)や「自称・宇宙の帝王」バド星人の巻(第19話「プロジェクト・ブルー」)など、気がついたときには手遅れだったため再会を果たせず悔しい思いをしたが、この歳になっても面白いものは面白いものだ。

 その2話をはじめ、わりとよく覚えている傀おっと回もあれば、「こんなのあったっけ?」とほとんど覚えていないエピソードもあった。

 たとえば、直近で放映された第43話「第四惑星の悪夢」もそのひとつ。
 試験飛行に臨んだ新型ロケットがナゾの宇宙人に操られ彼らの街に不時着。日本に帰着したかと思ったものの、そこはロボットに支配されている強権独裁都市だった……という設定である。ささいなことで生きた人間が殺されている。そういう恐怖社会だ。

 現代の日本人の多くは、あれをみて北朝鮮などを思い浮かべたのではなかろうか。支配者一味の「長官」らの態度や制服、物腰もろもろといったイメージはまさに北朝鮮のそれだし、街のたたずまいは写真で見る1970年代の平壌を彷彿とさせた。

 しかし、このドラマが製作された1960年代末ごろは、北朝鮮に関する情報は希薄で、むしろ数少ない日本を含む「西側」のマスコミですら「千里馬の勢い」などと好意的に取り上げでいた面が多々あった時代である(あのヨミウリですら好意的と解釈できる報道をしていた)。

 製作者が具体的になにをイメージして描き出したのかは手元に資料がないためわからないが、ずいぶんと大胆な世界に挑んだのだなといまさらながら思う(この回は怪獣も出なかったが、そういう回がけっこうあったことにいまさらながらに気がついた。ところでこの回、異星人にロケットのコントロール系統がまんま乗っ取られ連れ去られたというのに「新型ロケットの実験は成功した」というのはちょっとトホホな感じもしますなァ・笑)。

 さて、いまひとつ気づいたのが音楽である。番組で流れるBGMに耳を傾けていると、
「ぁあ、音楽の好みに影響を受けてるな…」
 と思ったのである。

 そこで、さっそくサントラCDを購入。

 もっとも「ウルトラセブン」に限らず映画音楽やアニメのサントラなども好んで聞いてきたから、セブンだけをどうこうすることもできないかもしれない。無調の前衛ふう楽曲も中学生のころから手を出してきたものだが、セブンサントラにもそれに近い楽曲があるし、やはり子どものころから親しんでいたドラマ「刑事コロンボ」などのBGMでもごくふつうに用いられている。

 そんなこんなで、このアルバムも楽しく聞かせていただいているのであった(アップ作業中のいまも背後で流れておりますо(^ヮ^)о)。


Ultraseven02

 同時に、『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』(青山通・新潮文庫)が目に止まったので、同じく我が手中に。こちらは最終回で用いられたシューマンのピアノ協奏曲にまつわる話が中心となっていますが、著者の思い入れが心地よく伝わってきた。

 じつはこの曲、かつては「気持ち悪い」と感じていた。だって、冒頭のあの甘ったるいメロディと不器用な和声ときたら・・・。悪いけれど、当時はそれだけで「もう結構!」という感じではあった。のちにCDやスコアも購入しつつ、ときおり聞くようになったが、演奏によってここまで違うのかと実感した楽曲のひとつでもある。

 面白いことに、本書でもそのへんについてが触れられている。

 セブン最終回ではディヌリパッティとカラヤンのコンビが採用されたのだが、たしかにあの演奏には鬼気迫るものを感じる。冒頭の増和音の一撃からしてそうである。

 件の場面の選曲にあたっては、グリーグやラフマニノフのピアノ協奏曲もリストアップされていたというのだが、たしかにシューマンがもっともあの場面「よっちゃん、あたし魔法使いなの」じゃなかった、ダンがアンヌに自分の正体を告げた瞬間のそれにふさわしい。

あの場面は、グリーグのピアノ協奏曲でもなければ、ラフマニノフのピアノ協奏曲でもない。それは、偶然ではなく、必然だったのだ。
 また、もしここに使用された音楽がカラヤン/リパッティ盤のシューマンのピアノ協奏曲でなかったら、ここまで自分が執拗に曲や演奏を追及することもなかったのではないだろうか。
(本書96ページ)

 著者はそう振り返っている。

 NHKの放映も、いよいよ最終回が近づいているが、その日が楽しみである。

 話かわりますけど。

 ついでにというか、「ウルトラセブン」のオープニングテーマを聞きながら、「こりゃぁ、ショパンの『英雄ポロネーズ』の中間部と一緒雀!」というのをいまさらながらに発見した。残念ながら、『~教えてくれた』にその件は触れられていないのだが(じつは少し期待していた・笑)、せっかくなので譜面にしてみMASITAというのがつぎの2点の画像(途中にある2ページ目は省略。英雄ポロネーズがそのまんま2点目の♨マークからがセブンの歌になります・笑)。心得のある方はぜひ弾いてみてくださいマセо(^ヮ^)о
Ultrap01b Ultrap02b
 またまた話かわりますけど。

 セブンの身長は最大で40メートルとも50メートルとも言われ、体重は3万5000トンにも及ぶらしい。極小化することもでき、たしか女性の鼻腔に入ったエピソードもあったと思うが、はてさて、その「質量」はどうなっているだろうか。質量はそのまま(3万5000トン)、すなわち人間サイズとなったダンの体重も3万5000トンでなければならない。極小化したさい、仮に1ミリ大の人型だとして、それでいて3万5000トンもの質量を持つとは……。そんな物体など想像すらできませんよ(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)


Hobuakin_6794

 そんな「疑問」に答えてないけど答えているのがほぶらきんの“ロックオペラ”「ゴースンの一生」でありましょう(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)。

 主人公・ゴースンは「身長10キロメートル、体重100億トン」と巨大化したはいいものの、「二度と元に戻れな」かったんですねぇ。そりゃそうでしょう。100億トンもの質量を持つ物体が仮に瞬間的に70キログラムになったとしたら、大型核爆弾もビックリするレベルの大爆発になること請け合い。巨大化は不可逆というワケです。・・・どうでもいいか、んなことは(笑)。

※今回のアップはインスタグラムにもダイジェスト版にてアップいたしMASITA。

| | コメント (0)

2021.11.02

2021年10月31日・・・の巻

Shostakobichop1351

 大韓の詩人・金芝河(キムジハ=김지하)に「1974年1月」という詩がある。

 同年1月8日、朴正煕が緊急措置第1号を発動した。これは、大統領の権限により「憲法上の国民の自由と権利を暫定的に停止」できるという措置で、これは、1972年に制定された「維新憲法」にその権限が定められている。ときの朴政権の狙いは、民主主義の回復を求める改憲運動を抑圧することにあり、「この措置に違反した者とこの措置を誹謗した者は、裁判官の令状なしで逮捕および拘束、押収、捜索のうえ15年以下の懲役に処する」と定められた。同年4月には最高刑を死刑に引き上げ、多くの無実の市民が逮捕され拷問すら日常化していたという。

 1974년1월을 죽음이라 부르자
 오후의 거리, 방송을 듣고 사라지던
 네 눈 속의 빛을 죽음이라 부르자

 1974年1月を死と呼ぼう
 午後の街 放送を聞いて消えた
 君の瞳の光を死と呼ぼう


 冒頭の3行である。
 この詩「1974年1月」を記した金芝河は、同年4月に全羅南道の黒山島で逮捕され、7月に死刑判決を受けた。
 日本からの解放、朝鮮戦争休戦を経てなお韓国市民が辿った暗黒の時代である。
 
 それに比べれば、まだしもわが国には道が残されている。
 しかし、あえて記したくもなってくる。

 2021年10月31日を死と呼ぼう──と……。

 同日深夜、NHKがBS4Kで音楽番組を放映した。
 ひとつは「玉木宏の音楽サスペンス紀行 死の街を照らしたレニングラード交響曲」、それに続きNHK交響楽団によるショスタコービチの交響曲第7番「レニングラード」である。

「音楽サスペンス紀行」は2019年1月放映の再放映で、こちらは本放映ぶんを録画してある。

 ナチスに包囲されたレニングラード。日々ひとびとが餓えて消えてゆくなか、あえてこの交響曲を演奏したオーケストラ。その模様はラジオを通じて市内やナチスと対峙する戦場でも流され、それはナチス兵の耳にも届いていたという。

 作曲にあたり、ショスタコービチはナチスに対するレジスタンスはもちろんだが、いまひとつは自由と程遠い全体主義国家建設を邁進するスターリンにも刃を向けていた。

 この夜、このふたつの番組の連続放映。プログラムを組み、実行したテレビマンの強い意思があったというのは穿った見方だろうか……?

 深夜にわたるボリュームたっぷりの音楽番組にいささか疲労はしたものの、つづいて手持ちのDVDのなかから同じ作曲家の交響曲第14番「死者の歌」を聞きながら更け往く夜をひとし過ごした。

「死者の歌」はアポリネールなどの詩を用いたソプラノとバリトン独唱つきの楽曲である。インスタグラムにも引用したが、その歌詞の一部──。

 День кончился.
 Лампа над головоюГорит, окруженная тьмой.
 Все тихо. Нас в камере только двое:
 Я и рассудок мой.

 一日が終わった。
 暗闇のなか頭上にランプが灯る。
 静かだ。独房にいるのはふたりだけ
 オレとオレの理性。
※À la Santé/Guillaume Apollinaire/Перевод М. Кудинова
7thsymphonymov1_02  上の譜表は交響曲第7の有名なくだりのどの冒頭である。
 ラベルの「ボレロ」のように、同じリズムと同じフレーズが楽器を徐々に加えながら、やがて大音響のクライマックスへと進んでゆく。
 この不気味なリフレイン。いま、我が祖国はこのなかのどのあたりを進んでいるのだろうか。
 恐ろしいことだ。

 ▼問題の箇所から▼


▼フルバージョン▼


 

| | コメント (0)

2021.03.19

嗚呼、発掘・・・の巻

Yozoh_5167


  お気に入りの韓国人歌手・YOZOHさんの日本語版エッセイ『とにかく、トッポッキ』(澤田今日子訳・CUON刊)が発売されたので、さっそく入手。
 彼女のことはなにかの調べものをしている最中に偶然知ることとなったもので、その瞬間に「ピピッ!」と感じるものがあった。その直後に訪れたソウルで入手したのが左の『기타등등(ギターあれこれ)』(中央ブックス)ほかCDをあれこれというワケで──とはいえ、行き着けの光化門の教保文庫で狙っていたブツのすべてを揃えることができず、店に置いてあるパソコンで在庫をチェックし、永登浦店とのハシゴをするハメになったのだが──、現在にいたるまでときおりプレイヤーに載せてはその自然な音色を楽しんでいる。曲と合わせてオススメでごぢいますо(^ヮ^)о


Jidori01

  話かわりますけど。
 やはりネットで調べもの(中国語)をしている最中に発見したのがこの「地鶏」おっと「自撮りネコ」でござった。そのときは「中国人もなかなかやりますな」と感心したものだったが、ふと思い日本語で検索してみると、同じ画像が山ほどお出ましになった。そこで……(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)

English

  当然のこととして英語でもお出ましに。

Hangul

  いうまでもなく大韓語でも調べるワケで、意外でもなんでもなく同じのがヒットしMASITA(笑)。

Thai

  するとタイ語だとどうなんだろうというのがごく自然の流れではごぢいますよね。

Bengal

  タイ文字はいまだに解読できないが、ついでといってはなんだけど、同じく読めない文字の代表選手としてベンガル語なんかでも調べてみたくなるのが人情というもの。

Rossiya

  タイ文字と違って、ロシア語のアルファベットはどうにか読取ることができる(学生のころ少しだけ独学したのだ)。

Yandex

  ロシアといえばヤンデックス。こうなるとグローバルの体現でごぢいますわね。

Urdu

  ウルドゥ語も4649!

Baidu

  最初が中国語での調べものの最中だったので、百度でも検索。ごくあたりまえのようにお出ましになりMASITAо(^ヮ^)о

 ・・・と、ここまでやったところで、バカバカしくなって打ち上げ。それにして、も。この画像のインデックスケースというか出何処はいったどこのどなたなのでありましょうか……。

Soutou_5179

  またまた話かわりますけど。
 中国は雲南省昆明で“発見”されたという「双頭人」。といっても個人的にはなんら知識を持ち合わせていなかったというか、上の参考画像にさせてもらった名著『人生解毒波止場』(根本敬/洋泉社)のなかで知るのみだったのだが、ある日、ふとその詳細を知りたくなった。

Soutou_5180

  同書によれば、著者が知人を通して無事にその映像を入手できたということで、つまりはネット上に件の動画があってもおかしくはないのである。ところが、簡体字に限らずあれこれ漢字表現を変えてグーグルなどで検索してみてもなかなかお目当てのブツに巡り合えない日が続いた。そこで気づいたのが、中国ならば百度あたりを調べるのがスジというものであろうということで、果たせるかなそのカンは見事に大当たりだったのでありMASITA。

◎下のリンクが件の動画。ただしひとによっては強烈に感じる可能性があるので、そのへんを各自ご判断のうえご閲覧くださいマセ(ホラーの類ではなく純粋な医学・人間ドキュメンタリーですが、ご覧になった方々が抱く感想について当方は責任を持てません)。いまを去ること1979年の出来事である。

(゜゜;)昆明に遊びに来ていたところを発見され……(゜゜;)

Tora_5178

  いまひとつは、大韓はソウルで起きたトラと高校生との大格闘である。
 事件が起きたのは1989年3月1日。現場はソウルの子ども動物公園である。ことの顛末は参考画像『ディープ・コリア』(幻の名盤解放同盟/画像は「豪定本」〜ブルース・インターアクションズ版)にあるとおり。

 で、この事件の詳細についても兼ねてから知りたいもんだと思っていたところ、2年ほど前にそれを伝えるテレビニュース動画がアップされているのを発見。つぎのリンクがその動画でありまッスムニダо(^ヮ^)о

(゜゜;)トラと闘った高校生(゜゜;)

 自らの無聊を慰めるべく(笑)、ついついしょうもない無駄話──しかし、ィ世の中にこの話を待望する499人がいるハズ──をしてしまったという話でごぢいMASITA。

☯☯☯追記☯☯☯
『ディープ・コリア』といえば「ドアール化粧品」が一部マニア(?)の間でナゾのブツと評判になっているようだ。が~。このたびその「ドアール化粧品」もとい「도아루화장품」(ローマ字だとまんま「DOARU」。かつて調べたときにDOIRだの도알だの두아르だのとやっていたようでは引っかかるワケがないのであった)が「日本製化粧品」という触れ込みでネット上で売られていることが判明(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;) どうやらアマゾンや楽天市場などには出品されていないようだが、ご興味のある方はぜひ検索を(笑)。それにして、も。DKの面々が鬱陵島に上陸したころはともかく、いまや日本製よりも大韓製化粧品のほうが世間をにぎわしている時代。はたして売れ行きやいかに(大きなお世話ですね・笑)。

| | コメント (0)

2020.12.31

騒動の1年が締めくくられ……・・・の巻

Hime_4769

  西暦2020年……。新型コロナウィルス騒動にはじまり、そのひと段落すらさっぱり見えないままに年を閉じつつあるところでありますが、それにくわえて個人的大事件だったのは、なんといってもヒメの子だくさんでありましょう……。

 知る限りにおいて、ヒメがはじめてわが家に顔を見せたのが一昨年の12月上旬。ウチの子ちゃんが他界して間もなくのことであった。それからおよそ1年をかけてわが家の一員となったのはいいとして、2020年3月、7月、11月と矢継ぎ早に子ネコを産み落としてきたのだからイカしている。4+5+6。都合15匹。うち1匹(7月生まれ)は育たず、同じ月の2匹が里親に引き取られていった。つまり、いまわが家でにゃーにゃー言ってるのは総勢13匹。いくらネコが好きだからといって、まさかこんなザマになろうとは夢にも思わず、その騒ぎはいまも続いているのでありMASITA(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)

 さしあたり、年明け8日にヒメの拉致が成功すれば「(ヒメの身体の状態が許せば)一発勝負で不妊手術を試みてみましょう」という話に獣医との間でなっており、翌週15日には7月生まれのメス・クルミに不妊手術を施すことになっている。クルミはともかく、はたしてヒメの手術作戦が成功するか……。なんともおそろしいことになったものであります(笑)。

Chopin_csonata_4777

  年の瀬を迎え音楽の話をひとつ。
 ショパンといえばピアノ曲だが、2曲のピアノ協奏曲に代表されるオーケストラつきの楽曲のほか、わずかながら室内楽が残されている。そのひとつがチェロソナタ(作品65)で、個人的に気に入っているショパンの楽曲である。

 この曲が上梓されたのは1946年(着手は前年)。翌年に出版されているが、この曲がショパンの生前に出版された最後の作品となってしまった。すでに結核に冒され、咳きの発作がほとんど慢性的にまでなっていたなかでの作曲である。この曲のあと作曲されたのは、歌曲が1曲(「メロディ」作品74-9)と2曲のマズルカ(作品67-2と68-2)。そのほか1848年10月12日の日付のあるワルツ(ロ長調)の楽譜が残されているという。

 心身ともに追い込まれているなか、最後の大曲としてチェロとピアノとの合奏曲が選ばれたのにまず興味がわくし、曲のディティールを検証してみると、従来の「ショパンらしさ」とともに斬新ともいえる手法や表現がそこここに見えかくれしていて、「もしショパンが少なくともあと10年生きていたら、どんな曲が残されることになったのだろう?」との思いも去来する。

 上の画像はかれこれ35年以上前に入手した「チェロソナタ」の楽譜、その第1楽章の展開部の一部だが、この展開部の巧みな筆致はどうか。つかの間、ピアノの走狗が挿入されると「ぁあ、ショパンらしいクセが出ているな」と思わせるのだが、その後の展開はピアノ協奏曲のころのそれとは明らかに異なる奥深さがある(同様の例はピアノソナタ第3番にもあると思う)。再現部で第1主題が省略されるのはショパンお得意の手法だ。

 この曲については、以前に終楽章について少しだけ触れたことがあるが、あらためて惜しい人を惜しいときに亡くしたものだとの感慨に耽ってしまう。

 ところで、藤原新也のエッセイ集『なにも願わない手を合わせる』(文春文庫)の1編には、とある彫刻家との間で起きたエピソードが綴られている。あるとき、面識のなかった彫刻家が出すことになった作品集の解説を知人を通じて頼まれたことからはじまる短い物語。しかしその彫刻家はすでに末期癌に冒されていたのであった。

 そして病室で面会したさい、藤原はつぎの問いかけを彫刻家にしたのである。

「今あなたはどのような新作を作りたいと思っていますか?」(160ページ)

 オレは思った。同じ問いかけを、チェロソナタを脱稿したショパンに投げかけたとしたら……?
 気難しいと伝えられるショパンである。あからさまな反応こそ見せなかったかもしれないが、目の輝きとともになにかを伝えてくれたのではあるまいか。ふとそんなことを思い、そういう生き方をしてみたいと思った。

■Frédéric Chopin - Cello Sonata in G minor


 

| | コメント (0)

2020.10.14

ビリビリくる音楽(バルトーク編・後編)・・・の巻

Himeoyako_3722

  なぜかこういうところが好きですよねぇ、ネコって。

Himeoyako_3746

  シアワセ一杯なひとときо(^ヮ^)о

Himeoyako_3745

  手前から、ユメ(3月生まれ)~そら(7月生まれ)~ちょび(3月生まれ)。3月生まれ組(ほかにコムギとももたん)は弟と妹の面倒見がいいのです。

Himeoyako_3743

  クルミちゃん。

Himeoyako_3710

  そらとクルミがソファでスヤスヤ……。ずいぶんと大きくなったものだ。

Sonata_ppo01

  話かわりますけど。
  前回につづき、「ビリビリする音楽」についての無駄話を。後編の主役はバルトークの「2台のピアノとパーカッションのためのソナタ」(または協奏曲──上のスキャン画像は後者)である。

  前回も記したが、この「ビリビリ」とは、楽曲全体ではなく「そうそう、ココがいいのよ」とか「カッチョエエ!」という箇所に着目したもの。あえていえば「ハイライト」だのといった言い方になるのかもしれないけれど、むしろここでは勝手な思い込みを取り上げてみるというだけの話である。

Bartok_twopianos_3mov

  上の譜例は「2台のピアノと~」第3楽章の冒頭を簡略化したもの。少しでも譜面が読めれば即座におわかりいただけるように、ピアノのパートはドを基音とした長三和音、すなわち「ド・ミ・ソ」の和音がトレモロで鳴らされている。きわめて単純明解なコードともいえるが、おそらくこれ以上はないだろうというぐらいにギョっとするような効果をもたらしているのだ。つぎの動画がその場面。



  その「効果」を感じやすいように、少し手前(2楽章末尾)からスタートするようにしておいた。一般的には「不協和」と捉えられる響きがつづいたのち、突然のようにきらめく「ドミソ」(コードネームでいえば「C」)。じつは一連の響きのなかにあっては、この明解な和音こそが「不協和」ともとれる効果を生んでいるのである。

  その和音が響くなか、シロフォンが調性から逸脱したかのような不思議なメロディを奏でている。ここでバルトークが用いたのは倍音列音階旋律で、前回も触れた『バルトークの作曲技法』(エルネ レンドヴァイ/谷本一之訳/全音楽譜出版社)で詳細なアナリーゼがなされている。

Scale_bartok

  上の譜例の上段がその倍音列音階。全掲書では、
>倍音列音階旋律伴奏する単純なCーEーGの長3和音は、この曲の中では恐らくもっともショッキングな効果を生んでいるところであろう。(76ページ)
 と評している。

 ここにあるのは古来からの調性を逸脱しつつも音楽の原初に立ち返ったかのような語法であり、バルトークが到達したひとつの頂点と解釈することもできるのではないだろうか。

 その倍音列音階と対立するバルトークの語法に黄金分割音階がある。譜例の下段がその一例で、この「2台のピアノ~」では、たとえば第1楽章にその用例を見ることができる(この対比は前掲書73ページなどを参考にしています)。

Bartok_twopianos_1mov

  矢印部分がその音階を示している。

>半音階的な第1楽章と全音階的な第3楽章の主要主題を比べてみよう。“半音階的”主題は黄金分割の単位音程で組み立てられ、その旋律線は短3度、完全4度、短6度(3-5-8)を軸に構成されている。“全音階的”主題は倍音列音階[長1度、完全3度、自然7度、増4度、長6度]そのままである。(前掲書73ページ。[]内は引用者による補足)

 ついでに記すと、この「2台のピアノ~」は形式(構成)面でも黄金分割が強く意識されていて興味深い。たとえば、全4楽章からなるこの楽曲全体の黄金分割点は第3楽章の最初の音に位置している(小節数ではなく8分音符単位で計測)ことなどが、同前掲書で分析されている。

 あまり専門的になりすぎるとボロが出るので(笑)このあたりまでにしておくけれど、(現代)音楽のひとつの重要な語法としてバルトークを探究してみるのも刺激的で面白いものだとあらためて痛感している昨今なのであった。

●全曲はコチラにリンク(第1楽章の件の場面は3分目ぐらいから。コレがまたカッチョエエのだ)

  Béla Bartók (1881-1945) - Sonata for two pianos and percussion

  ちなみに……といおうか、あのショスタコービチがこの旋律を自らの交響曲に用いている。第13番「バビヤール」の第2楽章だ。


Bartok_pc03

  話を戻してこの「ドミソ」和音。バルトークがとりわけ好んでいたのかどうかはともかく、いくつかの楽曲の重要な場面に登場している。
 上の譜例は「ピアノ協奏曲第3番」、第1楽章の再現部である。ピアノが刻む「ドミソ」和音。ここにもオーケストラに倍音列音階が見てとれるが、この楽曲にあって強烈な印象をもたらす個所のひとつであることは間違いないだろう。

 ところで、オーケストラ(下段)がフォルテとなっているのに対し、ピアノ(上段)はメゾフォルテ。以前、それに気づいたさいに音楽家デラTにその話をしたところ、ヤツをして「えっ? そうだっけ?」と意外に感じたようであった。さらに「たぶん、ピアニストに対し、強打しすぎないように注意を促しているんだろうね」とのことであったが、楽譜を眺めつつメゾフォルテを見逃すと思いきり強打したくなる場面ではある。

 で、ココをそのまんまフォルティシモでやってのけたのがあのマルタアルゲリッチ。つぎの動画がその場面である。



  もっとも、ココを素直にメゾフォルテで弾いたらアルゲリッチじゃなくなってしまいそうにも思うのだが、たとえばシフアンドラーシュは忠実に演奏している。


Herzogblaubarts_burg

  この「ドミソ」。いまひとつ挙げてみると、オペラ「青髭公の城」で豪快な使われ方をしている(上譜例)。
 第5の扉が開かれ、青髭の所有する広大な土地をユディットが目の当たりにする。ここで件の和音がトゥッティーで強奏されるワケだが、じつはこの和音、曲の冒頭がF♯ではじまることと深い関係がある。ピアノの鍵盤でも思い浮かべていただけばおわかりかと思うが、このド(C)とファ♯(F♯)とはもっとも遠い音、すなわち「対極点」にある。それを大きな盛り上がり部分に持ってきた。言うまでもなく、バルトークは意図してこういう構成をつくりあげたのである。

 面白いことに、たとえばハ長調ではドミナントのファとシの2音はそれぞれミとドに解決するが、このファを同音であるミ♯に読み替えると、この2つの音(ミ♯とシ)はそれぞれファ♯とラ♯(またはラ)に解決するワケで、ハ(C)調と嬰ヘ(F♯)調とは近しい関係にあると解釈できるのであった。

Herzogblaubarts_burg_20201014100401

  ところで、ずっと以前から(たぶん中学生のころ)調性にはそれぞれ色があると感じていた。デラTとも「ぁあ、あるねぇ」という話になったりもするが、そういう感性と意図とを持ってバルトークは作曲していたらしい(バルトークだけではないと思うが)。

「青髭公の城」のドミソ=ハ長調(これは便宜的な表現で、ここでは一般的な意味での調性とはニュアンスが異なる)の場面は、広大な領地を城から見下ろしており、やや白身がかった青空がそこには広がっているに違いない。個人的に思うところのハ長調の色そのものである。ところが、その領地が血に染まっているのをユディットは見抜く。上の譜例はそのくだりで、ハ長調からヘ短調(同)の和音へと急変、血塗られたというほどの強烈な色合いではないものの、明らかに半ばくすんだ赤色がその音色として示されている──ここだけではなく、じつは全編にわたり豊かな色彩に満ちているのだが──。

 つぎの動画はそのドミソの直前からのもの。お時間が許す方はぜひ冒頭からお楽しみくださいマセ。



  シメに「ピアノ協奏曲」第3楽章のコーダを……。



 カッチョよすぎる(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)……。

| | コメント (0)

2020.10.08

ビリビリくる音楽(バルトーク編・前編)・・・の巻

Niwa_3699

  ある日、表に出ると庭がキンモクセイの香りで満ちていた。

Niwa_3705

  それにしても、すっかりと秋なのである。

Moon_3695

  なんでも、「火星が地球と大接近」というので、なんとなしに夜空を見上げてみた。火星は「たしかに目立ってますなぁ」と思った程度だったけれど、月にカメラを向けてみたらこんなふうであった。あとで、三脚を引っぱり出せばよかったかなと思ったものだが……。

Himeoyako_3706

  ネコはマイペース。あるとき玄関を開けたらそら&クルミが庭へ向けて猛ダッシュ。なんのことはなく、目的は「ちっち」でござった。

Himeoyako_3597

  だいぶいっちょまえになりMASITA。

Himeoyako_3593

  一連のネコ騒動はほとんど想定外ではあったのだが……。

Himeoyako_3599

  ネコのいる生活ってのはイイものなんですけどね。

Bartok03

  話かわりますけど。
  このところ、なぜかバルトークが再ブーム状態で(あくまで個人的にだけど・笑)、しばらく棚に隠れていたCDなどにも再登場を願いつつ鑑賞──といっても仕事のBGMであることのほうが多いが──に明け暮れているのであった。

 このブログでは、タマにクラシック音楽のウンチクなどを傾けていたりするが、今回と次回にわたり、バルトーク作品のなかから心身がシビレるフレーズを紹介してみることにした。「サビ」とは異なるが、その「サビ」を含めて「そうそう、ココがいいのよ」とか「カッチョエエ!」という箇所が楽曲によってはあるもので、バルトークにおいてもそれは例外でない──どころか、むしろ顕著だと勝手に思い込んでいる──。まず1曲目は「弦楽器と打楽器、チェレスタのための音楽」から第2楽章の展開部からつぎのくだりを。

Bartok_spc02
  問題の箇所を簡略化したのが上の楽譜。並んでいる和音(和声ではなく)を見るとすこぶる単純である。すなわち、E♭ーDーBーCーD♭ーE♭ーEーG……。なんの変哲もない長三和音の羅列である。いずれも上記ピアノパートのみに言及したもので、実際にはこのとおりではないのだが、コレがじつに効果的なのだ。このとおりにココだけを弾いてみてもそのカッチョよさを感じていただくことができるに違いない。




  ふとした思いつきで、問題の箇所をピアノ連弾に置き換えてみた(再生できない可能性アリ──その場合はゴメンナサイ!)。友人のラッパ吹きTの弁でもあるが、こうすると曲のディティールがより明確になったりするからだ。そしたら、これまたなかなかにカチョエエのである。

Bartok_spc01
  その置き換え楽譜。極力、実際に演奏可能なようにしてみたが、問題はときおり鳴らされるバスドラムであった。仮に演奏するだけのためにアレンジするとすれば、該当個所はバスドラムの響きを優先し、左手の弦楽器パートを半拍ぶん犠牲にせざるをえないだろう。ただ、ここでは音のディティールを重視し、あえて上記のようにしてみた。
『バルトークの作曲技法』(エルネ レンドヴァイ著/谷本一之訳/全音楽譜出版社)によれば、問題のバスドラムには重要な意味があるのだが、説明をしだすとキリがなくなってしまうので、ご興味のある方は本書103ページをご参照ください。なんにしても、バスドラムを優先すべき根拠がここにはあるワケである。

  ところでこの曲、タイトルには弦楽器と打楽器のほかチェレスタが並んでいる。ところが、チェレスタが登場する機会は極めて少ない。

・第1楽章:4小節──全88小節(6分30秒)
・第2楽章:6小節──全520小節(6分55秒)
・第3楽章:34小節──全83小節(6分35秒)
・第4楽章:10小節──全285小節(5分40秒)

* ()内はスコアに記されている演奏時間

  登場率5.5%。該当個所を聞く限りはピアノが大活躍しているし、じつは全編の多くの場面でピアノが露出しているのだが、あえてピアノでなくチェレスタとしたバルトーク。コレはいまさらながらに気がついた事実で、CDを聞いていてもほとんどチェレスタが聞こえてこないし、じつはすっかりそういうタイトルの曲だということすら(聞いている最中は)忘れていたのであった。う~~む……。

●上記リンク動画の全編はコチラにて。
Bartók: Musique pour cordes, percussion et célesta (Orchestre Philharmonique de Radio France)

Herzog_blaubarts_burg01

  このオペラ「青髭公の城」もかれこれ30年以上にわたって愛聴している名曲中の名曲。このDVDはソウルで入手したもので、だいぶ前にこのブログで触れたことがある。
  物語は村娘ユディットが青髭の城を訪れたところからはじまる。下界でささやかれている青髭のよくないウワサを聞いていたのであろう。ユディットは閉じられた7つの扉を開けてゆくように青髭に懇願。やがてその城に隠された秘密を目の当たりにする……(関係はないが、松本零士の『銀河鉄道999』を思い浮かべたことも)。

  有名な……ところかアリアそのものがあるワケでもなく、ポピュラリティ云々とは必ずしも相容れない作品だと思い込んでいたが、音楽家デラTによれば、国内でも演奏機会は多いらしい。上記DVDでは舞台作品というよりは大胆なセットを用いた映像作品という仕立てになっているが、舞台でどのような演出がなされているのか、いずれ青髭マラソンでもしてみたいものだと考えている。幸いにして、現代ではネット動画というお手軽メディアがある。そのひとつを以下にリンクしてみた。

  Bartók - Herzog Blaubarts Burg

  件のDVDの演出は、どちらかというとファンタジー色が強くロマンチックな仕上がりだが、上記リンクではややオカルトめいた演出になっている。こうした違いを見るのも楽しみだ。

Herzog_blaubarts_burg

  もちろん全編を通して聞きごたえと見ごたえに満ちた作品だが、個人的感想としてはとりわけ後半に「ビリビリ」とシビレる音の世界が矢継ぎ早に現れてグっときてしまうのであった。上の譜例はそのひとつ。残念ながらこのとおりにピアノで弾いてもあの世界観は再現できないので、先のリンクからこの箇所を見てみよう。この先にも「青髭ワールド」とでも言いたくなる音楽世界が最後まで展開する。



  というあまり役に立ちそうにないブログ記事を、バルトーク(ピアノ協奏曲全3曲)をBGMにつくっているのでありMASITA。
  つづくо(^ヮ^)о

| | コメント (0)

2020.07.10

嗚呼、仰天! 野球チーム・ヒメ発足か(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)?・・・の巻

Niwa_3220

  サボテンに花が咲きMASITAо(^ヮ^)о

Niwa_3221

  アジサイも色づいております。このアジサイ、3~4年前に買った小さな鉢植えを花壇に移したところ、驚くべき成長を遂げて、いまや花壇の大半を占領するまでになってしまった。キレイで元気だからいいけど。

Niwa_3222

  そのアジサイの傍らに小さな花。ィ世の中疫病だの災害だの子殺し事件だのとイヤな話ばかりではありますが、こうして季節はうつろいつつ生命を育んでいるんですねぇ……。
  で、そんなさなか……。

Himeoyako_3263

  ヒメ家族が倍増SITA(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)
  なんと5匹。前回の出産が3月中旬だったから、わずか4カ月後(細かくは1週間ほど短い)の出産だったワケで、年子どころの騒ぎではありませんなぁ……。ヒメを監督、白黒おじさんをコーチにしても、子どもたちだけで野球チームがつくれてしまうが、全員を選手にしてサッカーチームという作戦も考えられた(笑)。

  という新人たちではあるが、前回と異なり、今回はちょっとした難産であった。把握できている限りにおいて、最初の子どもが生まれたのが7月5日深夜(6日)。妙な気配を察してヒメがアジトにしていた衣装部屋を覗いてみたところ、産まれたてが2匹いたのである。ところが、肝心のヒメがソッポを向いたママなのだ。触ってみるとすでに冷たくなっていて「こりゃぁいかん!」と、とにかく温めてみることに。ムダを承知で口元をネコ用ミルクで濡らしてみたりもしたが、そうこうしているうちにヒメが子ネコの身体をペロペロしだしたので、ヒメに一任するほかはない。

  しかし問題はまだヒメのお腹に子どもが残っているらしいことで、このままだと胎児はおろかヒメの生命すら危ぶまれる。だが、気力はあるようだし、子どもをくわえてアジトに運んでいたりするので、ともかくもう少し様子をみることにした。

  その2日後、階下からヒメの妙な声が聞こえたので急いで降りると、廊下で半ばヘソの緒でつながったままの子どもをヒメが舐めてるでははないか。見るとまったく動いていない。最初の子どもからまる2日は経っているし、死産はやむを得ないんだろうなとは思った。しかし、ヒメは動かない子をくわえて再びアジトへ。仕方がないので、さらに様子見を決め込んだのだが、その後も子どもが何匹生まれて、そのうちの何匹が生きているのかが気になって仕方がない。

  そして7月9日の20時ごろ。居間で寛いでいると「みーみー」大きな声が廊下から聞こえてきたと思ったら、ヒメが子ネコをくわえてアジトから2階の空き部屋へと引っ越しをおっぱじめていた。こっちとしては4カ月前の先輩たちがいるし、彼らのときと同様にひと月ぐらいは目立たないようにしてほしかったのだが、その騒ぎのさなかに、今回生まれた子ネコたちの全貌を確認することになったのでありMASITA。

  しかし一本取られMASITAなァ。今回は致し方のない経緯があったとはいえ、なんとしてもここで打ち止めにしなければいよいよ大変なことになってしまうぅぅぅぅ~~(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)

Himeoyako_3260

  先輩4匹。ヒメ親子。ずいぶんと大きく育ったものです。しかしそりゃぁいいとして、今回の5匹、柄のラインナップが先輩たちとほぼ一緒。名前つけるのにも往生しそうですなァ……。

Himeoyako_3253

  その先輩たちの面倒もよく見てるんですよ、ヒメ。
  2週間ほど前だったろうか、マグロの中トロを買ってきた(もちろんニンゲンが食うため)ので、ひときれを少し細かく切り分けてヒメにあげたことがある。子どもたちはどこか別の部屋で遊んでいたので、「いつも大変だろうからゆっくり食べな」というつもりであった。ところが、ひと切れを食べたヒメ、「みんな来なさい」とばかりに泣き声を一閃。たちまちのうちにゾロゾロと集まってくるちょびユメコムギももたん。だからといって、残り全部を子どもたちにあげるという話でもなく来たあとは早い者勝ちということのように見えたが、あれにはちょっとばかり驚きつつも感心させられたものだ。

Himeoyako_3254

  ニンゲンももっと見習わなければならないような気が……。

Himeoyako_3257

  それにしても、大きさがだいぶ近づいてきてしまった。

Himeoyako_3256

  ももたんは一番小柄。食欲は旺盛なんですがねぇ。

Dmg330

  話かわりますけど。
  朝日新聞出版のサイト「AERAdot.」に鉄道と音楽をテーマにエッセイを寄稿しました。ご笑覧いただければ幸いです。
「かつて新聞報道された名曲も 音楽で楽しむ鉄道」

  裏話などをしても仕方がないけれど、このネタを思いついたのは、このCD↑を引っぱり出しつつ、オネゲルの「パシフィック231」のピアノアレンジ盤を久々に聞いたことによる。あえて汽車と音楽という接点で聞いてみると、あらためて面白い曲だなと思ったのである。そこで古い資料などを発掘したりしつつ強引にまとめたワケだが、この仕事とは関係のないところで資料に読みふけることとなってしまった。

  ついでに・・・というのもヘンですが、「イマドキありえないノロさ? 日本各地にはこんなに「夜行鈍行列車」があった」(ともに別画面で開きます)などほかあれこれ寄稿させていただいております。

Honegger_book

  本書『わたしは作曲家である』(A.オネゲル著・吉田秀和役/創元社)が問題の1冊。この本そのものは知っていたものの、いまごろになってはじめて読むこととなった。調べてみると新装版が発売されていることがわかったが、あえてもっとも古い1953年版を入手。奥付には230円の定価と並んで「地方定価235円」とある。だからどうしたって話でもないが、本そのものの朽ち具合といい、時代を感じさせるデザインといい、活版印刷といい、この味わいがたらまんのだ。

  じつは「パシフィック231」に関する記述はわずかなのだが、第5章にあたる「職業上の技術的問題」に興味深いというか、「そうでしょうっ!?  ホントにそのとおりですよね!」という内容が綴られているのである。椎名歩美おっと椎名誠流にいえば「コノヤロ系」といったところだが、記譜法についてあたりまえといえばいえる疑問を挙げられているのだ。

  >記譜法上の変則的なこと、つじつまのあわないこと、廃物のことなどを話そうと思う。

(中略)

  比較的転調の少ないクラシックの音楽では、五線の前に、嬰とか変とかの変位記号をつけ、主要調整の性格を暗示することにきめていた。けれども、転調がたえずあるようになつたつい最近でも、まだこの廃物化した習慣を忠実に守つている大家たちがいたのです。たとえば、ポール・デュカの《アリアスと青髭》の中では(デュカは決して悪戯好きじゃなかつたのに)、第二幕の冒頭から、六個の変記号で武装してかかつているのですが、その存在は忽ち忘れられてしまい、すてられたソーセージみたいにそこにぶらさけられているだけで、音符は嬰記号や本位記号で装飾される必要に迫れてしまう。そこで一頁の中に約九十九個の変位や本位の記号がほりつけられることになる。無用で煩琑な長物ですな。

(中略)

  指揮棒の名人の間には、あなた方にこういう人もいるでしょう。《全部ハ音でかかれたスコアは、わたしにはよめない。移調楽器でよみなれてしまつたものだから……》。そういわれたら落ち着いて、こう返事するとよろしい。《では、クラシックの一連の作品はみなだめですね。何しろ、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューマン。リスト、その他の人たちは、実によくクラリネットやホルンをハで書いていますからね。そのパートはよめないわけですね……それともその楽譜を調べている時、ハでかかれているのに気がつかなかつらのじやないですか?》と。(本書66~71ページから抜粋して引用)

  長い引用をしたが、思いあたるフシのあるひとは案外多いのではないだろうか。もちろん、移調楽器の記譜法にせよ、調記号と臨時記号との関係にせよ、それぞれに合理性はあるワケだが、それを理解しつつも、オレもまた「なんかヘンだなぁ」と、かれこれ30年以上も思っていたのであった。だから、このオネゲルの論を目にして合点するほかはなかったのである。

  いまひとつ、オネゲルが挙げているのものひとつにクラシック(だけではないが)の声楽や歌のパートで用いられている記譜法がある。譜例として有名な「乾杯の歌」(ベルディ)を取り上げてみた(本書中ではデュカの「アリアヌと青髭」が譜例として挙げられている)。

Hurei01

  ▲譜例1:オリジナルの(伝統的な)記譜法
  本書にはもっと明解かつ複雑な譜例が引用されているが、この「乾杯の歌」程度であればもとかく、伝統的な記譜法だと案外リズムを把握しづらいことはないだろうか?  これをたとえばつぎのように一般的な記譜法に置き換えてみれば読みやすさの違いは明らかであろう。
Hurei02
  ▲譜例2:一般的な記譜法
  念のため、伝統的な記譜法には十分な根拠と合理性がある(歌詞の音節に合わせるためなど)。ただ、練習や演奏に際しての読みやすさという点で、はたしてどちらに軍配があるだろうかとも思うのだがいかがだろうか?  ちなみに、以前紹介した『バルトーク音楽論選』(訳:伊東信宏・太田静夫/ちくま学芸文庫)には、バルトークが各地で採取した民謡の譜例が掲載されているが、いずれも一般的な記譜法(譜例2の方法)を取り入れてある。
  ……なにはともあれ、面白い本です。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧