2025.07.29

「休耕田」ってなんだっけ?・・・の巻


 昼飯を喰いつつ、なにげにテレビをつけたら、NHKの劣等リレーおっと列島リレーニュースとやらが映った。
 仙台局の配信がちょうど流れていて、どこぞの自治体で18歳までの子どもがいる世帯に米を無料配布するという話題だった。育ち盛りの子どもがいれば、それは大変だろうなと思う。

 問題はそれに続く話題だ。

 同じくどこぞの自治体で「休耕田」を使った「どろんこバレー」大会が開かれた云々。なんでも、休耕田に水を張ってそこでバレーボールを楽しんだということで、それはそれで楽しかったろうと思うし、「来年もまた来たい」という参加者や善意の主催者を批判するつもりはない。
 だがしかし、厳然とした米不足があり、子育て世帯を公共サービスの一環として助けようという話題のあとに、これはないだろうと素朴に思った。

 なにしろ「休耕田」である。

 さらに全国各地で水不足が指摘されるなか、本来は米(稲)を育てているであろう田んぼにお遊びのための水を贅沢に流し込む
 休耕田については国家規模の大問題だし、自治体ができることも限られているのだろう。しかし、あえていえばこんな能天気な話題を流しそれでよしという話でもないのではないか、NHKさんよ?
 そもそもが、なんだってこんなに呑気でいられるのか、オレは不思議でならない。もちろん遊びは必要。だが、その前にちょっと立ち止まってみることも必要なように思うのだが……。

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2022.11.27

彼らにはもともと人権などないのだと中国共産党幹部は語った・・・の巻


 サッカーW杯。あの強豪ドイツに逆転勝ちを果たした日本代表だったが、2戦目のコスタリカには黒星を喫してしまった。

 結果は結果として残念だが、つぎのスペイン戦でドイツ戦をしのぐような大波乱を期待したいものである。

 一方、気になった(というより胸糞悪かったというのが正直な感想)のが、試合を中継していた某民放地上波の実況アナウンスと「解説」を名乗る雑談であった。いかにもコスタリカが格下であるかのように臭わせているように感じてならなかったが、それだけでなくデマカセばかり(とオレには聞こえた。すべてがそうとは言わないが)のおしゃべりに嫌気がさし、途中から音声を消しての観戦となってしまった。

 予選でコスタリカはプレーオフに回り、そこでニュージーランドに勝って本選進出を果たしている(番組内のおしゃべりではそんなところにも触れていたが、「だから大したことがない」といったような論調であった)。緒戦を見ても、けっして本調子とはいえなかったかもしれない。だが、それがどうしたというのか。各地で厳しい真剣勝負を勝ち抜き、たった32チームだけが進出できた本選出場チームなのである。しからば、対戦相手をとことんまでリスペクトし、サポーターを含め常に全力で相手にぶつかるべきではないのか(選手をはじめ現場はそうであったと信じる)。

 日本のマスコミでは、どこぞには勝てそうだ、どこぞには勝ち目がなさそうだができれば引き分けに持ち込めたらなどといった皮算用をしていたムキもあり、「またか・・・」と不愉快にさせられたものだが、そんなふうに相手をリスペクトしないおごりは不要である。それこそが、この敗戦の教訓だったのではないか。ファンのひとりとしてそう思う(シーズンの長いリーグ戦などで、対戦相手の調子などを鑑みて選手起用を含む作戦を組むのは別の話)。

 さて、初戦のドイツ戦は、観戦して心底エキサイトできた。いい試合だったと思う。

 といいつつ、じつはハーフタイムに入ったところから後半に日本の1点目が入る直前までサッカー中継から離れていた。

 ハーフタイムに入り、ふとほかのチャンネルをチェックしたところ、NHK-BS1で中国ウイグル自治区を舞台としたドキュメンタリー番組に遭遇し、そちらを見ることとなったからだ。

 今回のタイトルは、その番組中に出てきたワンシーンからの抜粋である。

 番組は英国のテレビ局による制作で、かの国における監視社会を暴くとともに、その先進地区としてのウイグル自治区のウルムチやカシュガルなどを取材したものだ。

 そうした街でひとつの電柱に雀でもむらがるように設置された監視カメラ(どういう次第か、日本では「防犯カメラ」などと称しているが、いずれも監視カメラにほかならないし、仮に「防犯」だと強弁したいのであれば、中華人民共和国のことなど批判できないだろう)。交差点ごと──ほぼ200メートルごと──に設置されている派出所(公安)。IDカードチェックなどで差別される一方のウイグル人。彼らの家の玄関にはQRコードのようなものが掲出され、当局がそれを携帯端末でチェックすることにより、その家庭の状況(当局が一方的に評価した思想の類を含む)が一瞬にして明らかになる仕組みだ。

 監視カメラではひとりひとりの表情や歩き方などまでチェックされ、怪しいと判断されたウイグル人が次々と捕らえられているという。

 ほとんどSFの世界である。

 現地では中国籍漢人男性が危険を承知で潜入記者を務めていた。ウイグル自治区には、ビジネス拡大のための事前調査といった名目で各地に潜入。一連の監視網に寄与しているIT企業の幹部から話を訊くことにも成功している。

 そんななか空恐ろしかったのが、今回のタイトルにしたくだりであった。

 中国共産党の幹部との接触に成功した潜入記者が、「ウイグル人に対しては人権侵害を指摘する声もあるが」といった方向に話をふったところ、
「彼ら(ウイグル人)にはそもそも人権などない。ゆえに人権侵害など起こりようがない」(抄録)
 という平然とした答えが返ってきたのだ。

 そういうのを人権侵害というのではないのかと──正常な感覚と知識を持ってさえいれば──だれもが思うハズだが、中国共産党に対してそういう初歩の初歩レベルの常識は通用しないらしい。

 断っておくが、オレは中華人民共和国の現政権はもとより中国共産党について大いに疑問と異論を抱いているひとりではあるが、中国人(諸民族)を敵視してなどはいない。いつの日か民主化が達成され、その後の我が国との交流(個人的なレベルを含む)やいい意味での相互の発展を期待してもいる。それだけに、こうした中国共産党の思想には怒りを覚えざるをえないのである。

 最新の報道によれば、上海で「中国共産党と習近平(国家主席)の退陣」を求める抗議活動なども起こっているらしい。そこには一連のロックダウン強制やウルムチで起きた高層ビル火災にさいしての当局の対応などへの抗議があるとのことだが、危険と隣り合わせにある中国大衆の怒りを素直にリスペクトしつつ、今後の動向を見守ってゆきたいと思う。


 

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2022.11.21

スポーツとカネをめぐる不正直な大衆・・・の巻


 サッカーW杯が開幕したが、どうも世間からの関心が薄いと感じているのはオレだけだろうか?

 サッカー観戦はわりと好きで、よほど忙しくもなければ、日本代表の国際試合などもテレビ観戦(ときには試合場で)してきたが、お恥ずかしい話、日本代表が本選出場が決まったことすら忘却の彼方であった。

 テレビはごくわずかしか見ない習慣だが(例外のひとつが、海外のニュース番組を集めた「ワールドニュース」の類)、それだって報道番組をまったく無視しているワケではない。ネット上のヘッドライン程度はチェックしているのだし、W杯関連の報道を完全に見逃していたとは思えない。一方で、米国野球で大活躍している大谷選手の話題などは日々目に止まっていたし、珍しくテレビ観戦をしたこともあるから、やはりサッカーの話題が異様に乏しかったのかもしれない……。

 しかし、そうは言うものの、近ごろはとみにテレビなどでのスポーツ観戦──“ながら”的なものを含む──をしなくなってしまった。とりわけ見なくなったのがアマチュア大会の類で、ほとんど完全に興味を失いつつある。

 なぜか?

 アマチュアのそれでありながら、カネのニオイが充満しすぎていることによる。ややもすれば、それはプロスポーツをしのぐほどであり、そのクセ、タテマエ(キャチコピーを含む)ではそんな生臭いことなど我関せずといった体が鼻につくのである(例外もあるとは思うが)。

 現在の五輪大会はプロの参加もあるとはいえ、東京五輪をめぐる汚職や失態──エンブレムの盗作疑惑や競技場設計没事件などを含む──の数々を、そうしたカネまみれの実態と無関係ではあるまい。ならば(というのもヘンだが・笑)、もっと正々堂々とカネのついてのもろもろをオープンにすればいいではないか。せめてプロ組織程度に。

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 さて、ふとした思いつきから、久々に「巨人の星」(梶原一騎・川崎のぼる)と再会した。
 子どものころ夢中になって同作のテレビアニメにかじりついていたものだが、この歳になって読んでも十分に面白く、共感できる部分も多い。

 そんななか、もっとも共感したのが左門豊作であった。

 主人公・星飛雄馬のライバルのひとりとして描かれた左門は、熊本の貧農家庭で生まれ、早くに父母を亡くすなど幼いことから苦労を重ねてきた。そして、野球という競技に目覚めてゆくなか、その自らの得意分野を生かして暮らしの土台をつくろうと決意。そうした背景のもと出場した全国高校野球大会(甲子園大会)で星との対決を迎えるが、そこで描かれているのがスタンドやテレビ画面などで選手たちに視線を送るプロ球団のスカウトや首脳陣であり、左門はなによりも彼らの目と評価を求めてグラウンドに立ってたのである。

 言い換えると、左門にとっての野球とは生活のための糧であり、より多くのカネを稼ぐその将来のためにも甲子園での活躍を自らに課してきたワケだ。

 素晴らしいではないか!

 高校野球というアマチュアスポーツの舞台を描くなかで、左門のような登場人物に違和感を抱く人もいるかもしれない。しかし、現実のプロはもちろんアマチュアスポーツのなかで、はたして左門の意思を真向から否定できる人は、はたしてどれだけいるだろうか。

 いつだったか、夏の甲子園大会への出場を果たしたチームを取り上げたテレビニュースのなかで、選手のひとりが「客を楽しませたい」といったことをしゃべっているのを聞いて、心底情けなくなった。日本のアマチュアスポーツは、ここまで広告の類に害されているのかと思ったのである。

 客を楽しませる?

 そんなもんは、プロになってから考えることではないのか?

 類似のキャッチコピーに選手自らが「楽しんでやりたい」といったのがあるが、それはそれとして共感はするのものの、一種の流行りのように流布されていることにも疑問を抱く(そもそもああいうのは、選手自身が「自分の言葉」だとどこまで思っているのだろうとも思う)。

 ちょっと話が飛んだが、仮にそこで甲子園出場を果たした高校球児が、
「ぼくの夢はプロ野球で活躍すること。●●選手を目指し、米国野球にも挑戦したい。甲子園出場はそのためのステップと考えている」
 ぐらいの発言でもしてくれれば、オレは大喝采するかもしれない。

 あるいはもっとストレートに、
「プロ選手のなるのが夢。得意な野球でおカネを稼ぎ──」
 と言い切ってくれるような選手は出てこないものだろうかとも思う。上記「──」部分は、たとえば左門のような背景があってもいいし、そこで稼いだおカネを資本に起業する夢があるというのだっていい(もっと砕いて「活躍して女にモテたい」ってのもええなァ……)。

 もっとも、そんな正直な発言が一般に受け入れられないのが我が祖国の大衆とマスコミなのかもしれないが、オレはこれこそが現実であり、選手ひとりひとりの人生設計を鑑みても少しも間違っていないと思う。

 さて、今回のサッカーW杯開幕のさいに思ったことがひとつある。

 テレビ中継を楽しみにしているファンも大勢いるワケだが、NHKはそこから撤退すべきではないのか? W杯にせよ五輪にせよ、あるいはほかもろもろの国際大会にせよ、そこには巨額のカネが動いており、放映にあたってもべらぼうな金銭が支出されているハズである(例外はある)。そして、中継画面には多くの広告が乱舞しているワケで、これはもう公共放送ではなく民間放送のテリトリーではないのか? 公共放送にはほかにカネを使うべきこと──たとえば民間マスコミで取り上げづらい事案など──があるハズだ。

 その巨額のカネだが、海外でNHKニュースなどを見ていて、こうした大会などのスポーツ報道になると、突如にして画面が消えて音声だけになるというのを経験している人も多いだろう。なんだって報道にすら放映権料のようなカネを要求するのかとも思うが、そんなところにもまた、カネまみれスポーツの実態が見て取れるのだ。一部に例外はあれど、主役であるハズの選手にはカネのことを語らせたがらないクセに。


 

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2022.11.09

米国と民主主義・・・の巻


 アメリカ合州国の中間選挙が実施され、日本の各メディアも大々的に報じている。なかには、自国の選挙こそこれぐらい熱心に報じたらどうなんだと皮肉りたくなることもあるが、日米以外の各国での扱いにも興味がわくところではある。

 というのは、米国大統領選挙を近々に控えた2016年秋に欧州4カ国を訪れたさい、テレビニュースの類でかの報道をほとんどみかけることがなかったのである。出発前の日本のテレビでは連日大騒ぎ。帰国後も同様であったが、この違いはいったいなんなのだろうと素朴に思ったものだ。

 今回の中間選挙では、トランプのおとっつぁんが旗振りを続けている共和党が政権党である民主党に雪辱するかどうかという点がひとつの注目点となっているという。これをアップする前の状況ではどうやら共和党が優勢のようで、ただでさえキナ臭さが増す世界情勢に与える影響が心配になってくる。

 中間選挙をめぐる論点には、インフレ対策や銃規制をめぐる議論、現政権と前政権に対する評価などが取りざたされている。銃規制や人工中絶問題などは民主・共和“2大政党”の立ち位置が比較的明瞭だが、なかでももっとも注目されているらしい経済対策について、この選挙の結果がはたしてどれほど米国民の希望に寄与するのかという気もする。

 さて、そんなさなかに興味深いテレビドキュメンタリーと巡り合った。

 NHKが放映した「ミシシッピへの旅 分断国家アメリカのルーツ」である。

 ジャーナリストであるキャノンハーシーが米国における分断のルーツを探るべくミシシッピを訪問、その旅を追跡したドキュメンタリー。1960年に上梓されたルポルタージュ「A Life for A Vote」(キャノンの実父であるジョンハーシーの著作)から着想を得、黒人農民から起こった公民権運動から現在に続く実情を探るというもので、米国における民主主義の深層へとテーマが収斂してゆく。

 そのなかで、俗に“民主主義の総本山”とも捉えられているアメリカ合州国が「民主化」されたのは早くとも公民権法が制定された1964年であり、取り立てて長い歴史があるわけではないことが語られていた。

 そうなのだ。自由の国と喧伝されてきた米国の正体がそれなのである。たとえば、踵を接するように、ジャーナリストの本多勝一が黒人写真家とともに深南部などを訪問。そのさなかにあからさまな人種差別行為に遭ったばかりか、自動車で走行中に銃撃すら受けたことが報告されている(『アメリカ合州国』朝日文庫)。一方で、同じ著者が21世紀を迎えた米国深南部を再訪し、表面的には差別が大きく減少した事実に触れているが、それが融和ではなくモザイク状の分断であることを指摘している。

 公民権法によって米国では法による人種差別が撤廃されたことになっているが、実際には差別は綿々と続き、いままたトランプを旗手として巧妙な手段を交えながら公民権法を骨抜きにしようと画策している層が存在しているのである。

 こうしたことを通り一遍に批判することは容易であろう。だが、そうした差別的(本人らがそう思っているかどうかは不明だが)思想にかられた層が、かなり広範に深く広がっていることに興味を覚える。

 同時に、それに頬かむりをするかのようにかの国が「民主主義の総本山」などと持ち上げることに改めて疑念を抱くワケだが、その未完成な民主主義社会にあって、その改善を目指して活動を続ける人々が、おそらくは大きな層をなしていることも忘れてはならないと思う。

 アメリカ合州国はどのような道を選ぶのだろうか。それは形こそ違えど民主主義の根幹が脅かされている我が国にとっても無視するはできないだろう。おそろしいのは、そうした国家がいままさに各地に顕在していることかもしれない。


 

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2022.05.31

人類と“反省”・・・の巻


 世界がキナ臭い。

 子どものころの話だが、世界大戦が2度も起きたということを不思議に思ったことがある。対立が戦争に発展したり、一方的な侵略が行使されるといったことは子どもなりに理解できたが、それがなぜ世界的な大戦争になったのかがにわかに理解できなかったのだ。

 ほどなく、その重要な要因として軍事同盟だの「同盟国」だのといった実態が結びつくことに気がついた。さまざまな事情などから、国同士が軍事面を含め手を結ぶということも理解できる反面、それが高じて収拾のつかない大戦争へと発展する。いささか単純化したきらいはあるかもしれないが、いまでもその理解が大きく変わったわけではない。

 プーチンロシアによるウクライナ侵略に端を発し、フィンランドなどが新たにNATOへの加盟を表明している。その事情や気持ちは理解できるつもりだし、仮にオレ自身がそれらの国の国民であったとしたら、その方針を完全に否定することができないに違いない。

 だが、これはまさに世界大戦への一里塚なのではあるまいか?

 そうならない前にプーチンが失脚──外国からの圧力などではなく、ロシア国民の手によって──してくれればとも思うが、あえてプーチンの立場を理解しょうとするのであれば、脅威以外のなにものでもないだろう──いかにそのスイッチを押したのがプーチン本人にほかならなかったとしてもだ──。

 恐ろしいのは、わが国もそんな動きに同調しているということだ。プーチン戦争を奇禍として憲法改定だの軍事費大幅増強だのと声高に騒ぐ与党やマスメディア。NHKニュースをチェックすると、とりたてて大きな動きがあったわけでもないのに、多くの場合でウクライナがトップに据えられている。もちろん重要なニュースであることは否定しないものの、その陰でそれだけの報じるべき出来事が葬られているのかと思う。くわえて、そのニュース編成こそが、与党を中心とする勢力が目論む憲法改定や軍事費大増強に向けての世論誘導の役割を担っているとの見方をどうしてもぬぐえないのである。

 以前も記したが、戦争というものは一旦はじめてしまえば、終わらせることが非常に困難である。米国による諸戦争をみよ。あるいは、朝鮮戦争を仕掛けた北朝鮮(金日成)はほんの数日で戦争を終結させる計画であった。それが完全なドロ沼と化し、いまだ終戦できずいる。プーチンにしても、自ら起こした戦争をいつまでも続けたいなどとは考えていないハズで、すでに終わりの見えない状況に苛立ちを見せているかもしれない。だが、当事者がどうしようと──自らの敗北宣言を含め──簡単には終わらせられないことは、人類の歴史が証明している。

 そういう教訓があるにも拘わらず、軍事増強を叫ぶ日本という国の愚かしさ。まぁ、マトモな外交能力がないことや、自らが米国の属国であることを自覚しているがゆえのオママゴトなのかもしれないが、アワを食わされるのは我々一般国民である。経済面を含めて。

 さて、このごろ早朝にネコどもから騒ぎ起こされる──腹減った~!──のが日課となってしまっている。つい先日は4時台──寝たのは2時過ぎだ是(泣)──に起こされた。で、朝食を用意してやったついでに、茶をいれつつTVをつけたら、NHKニュースにマハティール元マレーシア首相がインタビューに応じている映像が放映された。

 そのなかで、非常に重要な発言がなされていた。

「第2次世界大戦後、各国は戦争は破壊をもたらすという教訓を得ました。しかし残念なことに戦争によって国家間の対立を解決できるという古い考えに戻りつつあり、これは非常に危険だ」(同ニュースより)

 これは、まさに基本的立ち位置なのではあるまいか?

 さらに米中対立についても鋭い見識を披露している。目下、米国が中心となって進めているIPEF(インド太平洋経済枠組み)について、「中国を排除し、対抗しようとするものだ」との見方を表明したのである。すなわち、「(米国が進めていることは)中国に反対し、米国に友好的な国をつくるという政治的な目的」にほかならない。さらに「経済発展には安定が必要で、対立は必要ではない。米国は中国の締め出しに熱心らしく、南シナ海に艦艇を送り込んでいる。(これでは)いつ偶発的な事故が起きて暴力行為や戦争になるかもしれない」とし、米国と中国との対立激化を避けることが必要だと語っている。

 これを見たとき、「わが国政権やその傀儡と化したNHKと180度異なる意見だが、単独インタビューを所望したのはNHKであり、なきものとすることができなかったのかねぇ。だとすれば痛快、痛快!」などと勝手に想像してしまった(これは個人的な妄想であり、ことの真相は不明です)。もっとも、インタビューは放映したものの、「ルックイースト政策」がどうの、ケーッセキ安倍との関わりがどうのと、「ニッポンスゴイ」的な方向にまとめようとする「努力」が垣間見られ、せっかくいいインタビュー映像を撮ったNHKに対し哀れな印象も得たものだ(まぁ、いかにもニッポンという感じもしますがね・嗤)。

 オレ自身も、現在の中華人民共和国、もっといえば中国共産党には問題が山積していると考えている。あの覇権主義は危険そのものであり、すでのあの手この手──経済援助という名の支援もその有力ツールだ──で侵略行為に手を染めているのが中国共産党だ。だが、そこに米国のような軍事的対抗をしてゆくことは、まさに彼ら(米国)がこれまで幾度なくしてきた開戦への罠に陥る可能性を否定てきない。中国がそれを狙っているのかどうかはともかくとしてだが。しかし、そうならないための策はあるハズではないのか……。

 ともあれ、マハティール元首相のなかに、歴史に学び、それを現在や未来に生かすというセンスを感じることができた。最初の話に戻すならば、(たとえ暴虐プーチンロシアから自国を守るという建前があったとしても)NATOなどが対立を解消できるとはとても思えない。

>たぶん中国語や日本語にもあって、ヒンドゥー語にない言葉が三つあるが、それが何かわかるか。私が首を振ると、キャロラインが教えてくれた。
「ありがとう、すみません、どうぞ」の三つよ。
 この三つの言葉は、本来は存在するのだが(以下略。『深夜特急3』(沢木耕太郎・新潮文庫)

 これを日本という国(個々の日本人一般ではなく)に当てはめるのであれば、「ありがとう、すみません、どうぞ」ではなく「反省」という一語が筆頭に居座るのではないかなどと思っていたが、そういう国家は、残念ながら日本だけでなかったらしい。ロシア然り、米国然り……。

 なんだかいよいよ絶望的な気分になってくるが、マハティール元首相のメッセージがどれだけ日本の大衆に届き、正当に咀嚼されたか。わずかな期待を持ちたいというのもまた本音ではある。

●追記
 ところで、フィンランドの首脳といい、マハティール元首相といい、なんだって英語でスピーチしていたのだろう。

 フィンランドのサウリニーニスト大統領とサンナマリン首相によるNATO加盟意志表明のスピーチをTVで見たが、なぜか英語であった。演壇の背後にEU旗が見えたから、ひょっとするとEUの国際的な場では英語が公用語になっているのかもしれんなどと思ったもんだが、仮にそうだとするとこれもまたよくわからない習慣といえまいか。なにしろ、EU加盟27カ国中で英語が母語ないし公用語としているのは、アイルランド(アイルランド語も公用語)とマルタ(マルタ語も公用語)だけであり、英語の総本山たる英国はすでに脱退しているのだ。

 あえていえば、比較的国際間で通用しているということや、いずれの国の母語でもないことから、第三国言語を共通で用いることによって公平を期しているのかもしれんと──これはまぁ下世話な冗談ではあるけれど──、いかに国際的な公式の場だとはいえ(いや、むしろだからこそ)なんだって堂々と自国語で話をしないのだろうかと心底思う。世界的に報道されるさいには、日本であれば日本語に訳されるわけだし、米国なら英語にあっちで訳すことになる。なにもあの場で英語なんぞ用いる必要性はまったくないではないか(たとえば、米国との2国間の首脳会談といった場であれば、お互いの発言に正確を期すという意味でも英語──これだって米国側がフィンランド語を用いてもいい話ではある──を用いることは考えられるだろうが)。

 マハティールさんの場合はもっと謎である。彼の業績については異なる立場も多々あることを承知しているつもりだが、近代マレーシアの難しい舵取りをした人物であり、御大であることを疑うことはできないだろう。そんな人物が、なぜ母語であるハズのマレー語でインタビューに応じなかったのか(マレーシアは英語を「準公用語」としてはいるし、中国系国民がマレー語と併せ中国語を用いているなど日常的言語の領域そのものが広いが)。まさかNHKにマレー語ができるスタッフがだれひとりいなかったなどとは考えもしないが、ああいう場だからこそ、国の言葉で応じてほしかったと思うのだ。

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2022.03.02

ウルトラセブンがシューマン騒動を起こした(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)・・・の巻


 3週間ほど前だったか、友人の作曲家でらTから久々──たぶん1年ぶりぐらい──に電話アリラン。

でらT:もしもし?

オレ:久しぶり。ところでさ、ありゃぁなんだって“フォルテ”なんだ? “フォルティシモ”じゃなくて。

T:へっ……(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)?

オレ:シューマンのピアノ協奏曲の冒頭なんだがね(笑)。

T:アレはオレが書いたとしても“フォルテ”にするな。

オレ:でもなぁ、あの最初のE音のトゥッティもそうだし、直後のピアノソロの和声とリズムの毅然としたところからするとねぇ……。

T:そもそも“フォルテ”なんて主観的な問題じゃん。それと、ピアノソロだけを見れば弱起なわけだし。──以下略。


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 某局で放映中の「ウルトラセブン」がいよいよ佳境。その最終回の見せ場といえば、「よっちゃん、あたし魔法使いなの」もとい、ダンがアンヌに自らの正体を告げる場面でありましょう(3月6・7日放映予定)。

 その場面で使われているシューマンのピアノ協奏曲がなんとも効果的というのもファンには有名な話。いつぞや紹介した『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』(青山通/文春文庫)で件の演奏がディヌ リパッティ(ピアノ)とヘルベルト フォン カラヤン(指揮)、フィルハーモニア交響楽団による録音だと知ったのだが、「それでは……」とネットショップを検索したところ、そのリパッティ&カラヤンの演奏がなんとウルトラセブンのジャケットで世間に流布されていることが判明。さらにこんなCDが出ていたことを知り、「まずは」ということでさっそく購入したのであった。

 すると、このブツが届いたまさにその日のィ夜、でらTから電話がかかってきたワケで、こちらとしては格好の餌食。久々に電話をかけたってのに、前置きもなくいきなりわけのらからん話題を振らるハメとなるワケだ。

 しかし対するでらTもさるもの。ほんの数秒後にはなにごともなかったかのように議論になってるんですからねぇо(^ヮ^)о まっ、ヤツとしては「またか……」というところだったのかもしれないが。


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 で、その問題の「フォルテ云々」は冒頭のピアノソロ(上画像=ピアノソロのみ抜粋)。いきなりの増3和音(コードネームでいうとCaug)は臭おっとシューマンの好むところ──パリ音楽院などの和声学でも「シューマンスタイル」として認知されている──。ここでもある種ショッキングな効果を産んでいるのだが、それだけに「フォルテ」というやや控えめな演奏指示──しかも2音目にスフォルツァンドがついているではないか──に違和感を覚えたのであった。

 もっとも、あらためて件のCDに収められているリパッティの演奏を聞いてみれば、無闇な強奏にはもちろんなっていない。

 一方で、この楽曲全体で見てもフォルテ以上の強奏指示は第1楽章では再現部の移行部に1カ所とカデンツァの入り部分に1カ所。たったその2カ所にすぎない。以降は第2楽章では皆無、終楽章では5カ所にフォルティシモが見られるが、全体的に控えめな印象なのである。

 では、シューマン自身がそんな控えめな表現を好んでいたかというとそういうワケではなく、すぐ手元に引き出せた「クライスレリアーナ」や「ファンタジー」などを見ても多彩な強弱記号が用いられている(「クライスレリアーナ」の冒頭では「ピアノ」による左手の分散和音に対し、右手の旋律側に「フォルティシモ」が施されていて興味を引く)。

 もっとも、そんなことが気になりだすと、曲頭のAllegro affettuoso(速い速度+情感豊かに)のほかになにか発想標語が記されてあってもいいような気もする。第1楽章全体のムードとしてAllegro affettuosoはふさわしいと思うが、この冒頭の効果的なパッセージに対するシューマンの本音めいたものが、もっと楽譜に残されていればよかったのにという気もするのだ。


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 その冒頭とあわせ、セブンとパンドンが取っ組み合いを繰り広げている最中の曲相(上画像=提示部第1主題から第2主題への移行部の弦楽器パートを大譜表に書き換え──後日談:と思い込んでいたら、この曲が流れたのはマグマライザーが地底を敵基地に向けて驀進している場面であった。やはり30年近い年月は重かったようだ・笑)が素晴らしくマッチしていて「カッチョエエ!」と思うのだが、いかがだろうか。なお、以降部のこのパッセージは提示部ではフォルテなのだが、再現部ではフォルティシモがつけけられている。

 それにして、も。シューマンもまさか21世紀になって自分の曲がこんなCDにされるなどとは夢にも思わなかったに違いない。しかしそれを言うのであれば、オレ自身がこんなに真面目くさって臭おっとシューマンの楽曲についてあれこれ出任せをするなんてことも、かつては考えにも及ばなかった。

 作曲家でらTは語る。
「そういえばさ、学生のとき、オレがシューマンを弾いたら怒って帰っちゃったことがあったよな(笑)。

 う~ん……。そんな「失礼」なことをした覚えはないが(笑)、そのとき弾いたってのが「ウィーンの謝肉祭の道化」だったそうだから、そういわれればそうこともあったかもしれんと思わないでもなし。

 ついでながら、あの西村京太郎御大が「オレ、シューマンが嫌いなんだよ」と語り、しばし盛り上がったというのはステキな思い出(なんだってそういう話になったのかさっぱり思い出せないのだが……)。

 とはいえ、近年になると、その楽曲よりもシューマンという人物、言い換えると人間シューマンに興味を抱くようになってきた。ベートーベンへの思いや同時代にならしていたショパンやリスト、ブラームス、メンデルスゾーンらに対する視線などなど。シューマンならではの人間味溢れる不器用さもあって、その生涯に興味をそそらないではいられないのである。

 ともあれ、「ウルトラセブン」の最終回を飾ったピアノ協奏曲という出来事を含め、タイムマシンでもあれば本人に感想を訊いてみたいものである。

 などと言っていると、「そんなに気になるならできないわけでもないんだ」などと口走ったあとに「しまった!」という顔をするヤツがいるんですよ。

 もちろん、こっちとしても聞き逃すワケはありませんわな。

「いまなんと言った? あるのか、タイムマシンが?」
「……なんの話だ?」
「しらばっくれても遅いぞ」

 とかなんとか、相手はとぼけきれずにタイムマシンが実在することを白状させられることに。困ったのはその存在を知ってしまったオレのほうでもあるが、どうにかその知人を口説き落とし、その実在するというタイムマシンを発明したという某老教授との面会に成功した。

「なんだって外部者にもらしだんだ?」

 苦虫をつぶしたような顔(というより、モロにぶつしている最中に見えた)で知人を叱責する老教授。

 オレも恐縮するフリをしながらあれこれ聞きだそうとするのだが、
「まぁいい。そこに座りなさい。これはな、完全な国家秘密なんだ。このことは黙っていてやるから、さっさと忘れてくれないと、君たちが危ない目に遭うことになるぞ」
 と、いささか恐ろしい話になってしまった。

 そんななかわずかながら判明したのは、この「タイムマシン」とやらが可能なのは過去への移動のみで、未来への移動は不可能との結論に現段階でなっていること。さらにこれは当然の話なのだが、いったん時間旅行をしたが最後、現代に戻ってくることがおよそ不可能だということである。それはそうだろう。この「タイムマシン」が存在する程度の過去であっても未来へは行けないという話に加え、そもそもタイムマシンなんどありもしない過去に戻ってしまって、どうやって現代へ帰ってくればいいというのだろう?

「それにな。もし君がシューマンの時代に出かけられたとしても、どうやってその時代の日本からドイツまで行く?」
「…………」
「仮に行けたとして……、君はドイツ語は使えるのかね?」

 う~~ん……。老教授はその口調とは裏腹に、けっしてこちらを馬鹿にしている様子ではなかったが、言われてみればそのとおりとうなずくしなかったのである。

 まっ、オレが元気なうちにもっと十全な「タイムマシン」が完成したら、コッソリと相談してみよう。ともにその時代で生涯を過ごそうなどという相棒でもいてくれたら、それはそれでうれしいのだが。

 シューマンのせいで、とんでもないことになったものである。

※なお、この話は簡略版をインスタグラムにもアップしMASITA。


 

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2022.01.25

嗚呼、ウルトラセブン!・・・の巻

Ultraseven01

 あるとき、NHK-BSで「ウルトラセブン」を放映しているのを発見し、「懐かしい是!」とウレシがりつつ鑑賞している。

 残念ながら大好きだったメトロン星人の巻(第8話「狙われた街」)や「自称・宇宙の帝王」バド星人の巻(第19話「プロジェクト・ブルー」)など、気がついたときには手遅れだったため再会を果たせず悔しい思いをしたが、この歳になっても面白いものは面白いものだ。

 その2話をはじめ、わりとよく覚えている傀おっと回もあれば、「こんなのあったっけ?」とほとんど覚えていないエピソードもあった。

 たとえば、直近で放映された第43話「第四惑星の悪夢」もそのひとつ。
 試験飛行に臨んだ新型ロケットがナゾの宇宙人に操られ彼らの街に不時着。日本に帰着したかと思ったものの、そこはロボットに支配されている強権独裁都市だった……という設定である。ささいなことで生きた人間が殺されている。そういう恐怖社会だ。

 現代の日本人の多くは、あれをみて北朝鮮などを思い浮かべたのではなかろうか。支配者一味の「長官」らの態度や制服、物腰もろもろといったイメージはまさに北朝鮮のそれだし、街のたたずまいは写真で見る1970年代の平壌を彷彿とさせた。

 しかし、このドラマが製作された1960年代末ごろは、北朝鮮に関する情報は希薄で、むしろ数少ない日本を含む「西側」のマスコミですら「千里馬の勢い」などと好意的に取り上げでいた面が多々あった時代である(あのヨミウリですら好意的と解釈できる報道をしていた)。

 製作者が具体的になにをイメージして描き出したのかは手元に資料がないためわからないが、ずいぶんと大胆な世界に挑んだのだなといまさらながら思う(この回は怪獣も出なかったが、そういう回がけっこうあったことにいまさらながらに気がついた。ところでこの回、異星人にロケットのコントロール系統がまんま乗っ取られ連れ去られたというのに「新型ロケットの実験は成功した」というのはちょっとトホホな感じもしますなァ・笑)。

 さて、いまひとつ気づいたのが音楽である。番組で流れるBGMに耳を傾けていると、
「ぁあ、音楽の好みに影響を受けてるな…」
 と思ったのである。

 そこで、さっそくサントラCDを購入。

 もっとも「ウルトラセブン」に限らず映画音楽やアニメのサントラなども好んで聞いてきたから、セブンだけをどうこうすることもできないかもしれない。無調の前衛ふう楽曲も中学生のころから手を出してきたものだが、セブンサントラにもそれに近い楽曲があるし、やはり子どものころから親しんでいたドラマ「刑事コロンボ」などのBGMでもごくふつうに用いられている。

 そんなこんなで、このアルバムも楽しく聞かせていただいているのであった(アップ作業中のいまも背後で流れておりますо(^ヮ^)о)。


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 同時に、『ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた』(青山通・新潮文庫)が目に止まったので、同じく我が手中に。こちらは最終回で用いられたシューマンのピアノ協奏曲にまつわる話が中心となっていますが、著者の思い入れが心地よく伝わってきた。

 じつはこの曲、かつては「気持ち悪い」と感じていた。だって、冒頭のあの甘ったるいメロディと不器用な和声ときたら・・・。悪いけれど、当時はそれだけで「もう結構!」という感じではあった。のちにCDやスコアも購入しつつ、ときおり聞くようになったが、演奏によってここまで違うのかと実感した楽曲のひとつでもある。

 面白いことに、本書でもそのへんについてが触れられている。

 セブン最終回ではディヌリパッティとカラヤンのコンビが採用されたのだが、たしかにあの演奏には鬼気迫るものを感じる。冒頭の増和音の一撃からしてそうである。

 件の場面の選曲にあたっては、グリーグやラフマニノフのピアノ協奏曲もリストアップされていたというのだが、たしかにシューマンがもっともあの場面「よっちゃん、あたし魔法使いなの」じゃなかった、ダンがアンヌに自分の正体を告げた瞬間のそれにふさわしい。

あの場面は、グリーグのピアノ協奏曲でもなければ、ラフマニノフのピアノ協奏曲でもない。それは、偶然ではなく、必然だったのだ。
 また、もしここに使用された音楽がカラヤン/リパッティ盤のシューマンのピアノ協奏曲でなかったら、ここまで自分が執拗に曲や演奏を追及することもなかったのではないだろうか。
(本書96ページ)

 著者はそう振り返っている。

 NHKの放映も、いよいよ最終回が近づいているが、その日が楽しみである。

 話かわりますけど。

 ついでにというか、「ウルトラセブン」のオープニングテーマを聞きながら、「こりゃぁ、ショパンの『英雄ポロネーズ』の中間部と一緒雀!」というのをいまさらながらに発見した。残念ながら、『~教えてくれた』にその件は触れられていないのだが(じつは少し期待していた・笑)、せっかくなので譜面にしてみMASITAというのがつぎの2点の画像(途中にある2ページ目は省略。英雄ポロネーズがそのまんま2点目の♨マークからがセブンの歌になります・笑)。心得のある方はぜひ弾いてみてくださいマセо(^ヮ^)о
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 またまた話かわりますけど。

 セブンの身長は最大で40メートルとも50メートルとも言われ、体重は3万5000トンにも及ぶらしい。極小化することもでき、たしか女性の鼻腔に入ったエピソードもあったと思うが、はてさて、その「質量」はどうなっているだろうか。質量はそのまま(3万5000トン)、すなわち人間サイズとなったダンの体重も3万5000トンでなければならない。極小化したさい、仮に1ミリ大の人型だとして、それでいて3万5000トンもの質量を持つとは……。そんな物体など想像すらできませんよ(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)


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 そんな「疑問」に答えてないけど答えているのがほぶらきんの“ロックオペラ”「ゴースンの一生」でありましょう(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)。

 主人公・ゴースンは「身長10キロメートル、体重100億トン」と巨大化したはいいものの、「二度と元に戻れな」かったんですねぇ。そりゃそうでしょう。100億トンもの質量を持つ物体が仮に瞬間的に70キログラムになったとしたら、大型核爆弾もビックリするレベルの大爆発になること請け合い。巨大化は不可逆というワケです。・・・どうでもいいか、んなことは(笑)。

※今回のアップはインスタグラムにもダイジェスト版にてアップいたしMASITA。

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2021.11.02

2021年10月31日・・・の巻

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 大韓の詩人・金芝河(キムジハ=김지하)に「1974年1月」という詩がある。

 同年1月8日、朴正煕が緊急措置第1号を発動した。これは、大統領の権限により「憲法上の国民の自由と権利を暫定的に停止」できるという措置で、これは、1972年に制定された「維新憲法」にその権限が定められている。ときの朴政権の狙いは、民主主義の回復を求める改憲運動を抑圧することにあり、「この措置に違反した者とこの措置を誹謗した者は、裁判官の令状なしで逮捕および拘束、押収、捜索のうえ15年以下の懲役に処する」と定められた。同年4月には最高刑を死刑に引き上げ、多くの無実の市民が逮捕され拷問すら日常化していたという。

 1974년1월을 죽음이라 부르자
 오후의 거리, 방송을 듣고 사라지던
 네 눈 속의 빛을 죽음이라 부르자

 1974年1月を死と呼ぼう
 午後の街 放送を聞いて消えた
 君の瞳の光を死と呼ぼう


 冒頭の3行である。
 この詩「1974年1月」を記した金芝河は、同年4月に全羅南道の黒山島で逮捕され、7月に死刑判決を受けた。
 日本からの解放、朝鮮戦争休戦を経てなお韓国市民が辿った暗黒の時代である。
 
 それに比べれば、まだしもわが国には道が残されている。
 しかし、あえて記したくもなってくる。

 2021年10月31日を死と呼ぼう──と……。

 同日深夜、NHKがBS4Kで音楽番組を放映した。
 ひとつは「玉木宏の音楽サスペンス紀行 死の街を照らしたレニングラード交響曲」、それに続きNHK交響楽団によるショスタコービチの交響曲第7番「レニングラード」である。

「音楽サスペンス紀行」は2019年1月放映の再放映で、こちらは本放映ぶんを録画してある。

 ナチスに包囲されたレニングラード。日々ひとびとが餓えて消えてゆくなか、あえてこの交響曲を演奏したオーケストラ。その模様はラジオを通じて市内やナチスと対峙する戦場でも流され、それはナチス兵の耳にも届いていたという。

 作曲にあたり、ショスタコービチはナチスに対するレジスタンスはもちろんだが、いまひとつは自由と程遠い全体主義国家建設を邁進するスターリンにも刃を向けていた。

 この夜、このふたつの番組の連続放映。プログラムを組み、実行したテレビマンの強い意思があったというのは穿った見方だろうか……?

 深夜にわたるボリュームたっぷりの音楽番組にいささか疲労はしたものの、つづいて手持ちのDVDのなかから同じ作曲家の交響曲第14番「死者の歌」を聞きながら更け往く夜をひとし過ごした。

「死者の歌」はアポリネールなどの詩を用いたソプラノとバリトン独唱つきの楽曲である。インスタグラムにも引用したが、その歌詞の一部──。

 День кончился.
 Лампа над головоюГорит, окруженная тьмой.
 Все тихо. Нас в камере только двое:
 Я и рассудок мой.

 一日が終わった。
 暗闇のなか頭上にランプが灯る。
 静かだ。独房にいるのはふたりだけ
 オレとオレの理性。
※À la Santé/Guillaume Apollinaire/Перевод М. Кудинова
7thsymphonymov1_02  上の譜表は交響曲第7の有名なくだりのどの冒頭である。
 ラベルの「ボレロ」のように、同じリズムと同じフレーズが楽器を徐々に加えながら、やがて大音響のクライマックスへと進んでゆく。
 この不気味なリフレイン。いま、我が祖国はこのなかのどのあたりを進んでいるのだろうか。
 恐ろしいことだ。

 ▼問題の箇所から▼


▼フルバージョン▼


 

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2021.10.15

完全版を読みたい手塚作品・・・の巻

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 あの手塚治虫が『サンダーマスク』をコミカライズしていることは知っていたが、遅ればせながら本書を読んだ。

 読んだら驚いた。
 すこぶる面白いのである。

「サンダーマスク」は変身ヒーローが悪と対峙する特撮作品のひとつ。1972年から翌年にかけて放映され、手塚マンガは番組と並行して「少年サンデー」(小学館)に連載されていた。特撮ドラマは現在日の目を見られない状況下にあり、事項で触れる『封印作品の闇』(安藤健二/だいわ文庫)がその経緯や裏側を追跡し優れた報告をしている。じつは、数年ぶりに『封印作品の闇』を開いた流れで「そいや、手塚版はどんな作品なんだ?」と思い、本書『サンダーマスク』(秋田文庫)を手にしたワケだ。

 特撮版のほうは子どものころなんとなく見た覚えがあるものの、残念ながらほとんど内容を思い出せない。一方、あの「ウルトラマン」を連想するような巨大ヒーローが怪獣と戦うという内容がどうも手塚治虫のイメージと結びつきづらく、いまさらながらに興味を抱いた。

『封印作品の闇』では「手塚治虫全集『サンダーマスク』」(講談社)に納められた手塚自身の作品へのコメントを引用し、「手塚の思い入れのなさが伝わってくる」と記してある。本書でも巻末の「解説」で大槻ケンヂが手塚の同じコメント(大槻の引用は秋田書店刊『SUNDAY COMICS』から)に触れつつ、「失敗作であることは、手塚先生自ら認めておられる」とし、つぎのように続けている。

>つまり要約すれば──「オレはこんなの書きたくなかったんだよ。でもイロイロしがらみがあってさぁ、やることになったわけね。でもやることになったらやっぱオレもプロじゃん? それなりの作品にしようとがんばったわけよ(後略)」

 なんだかんだ言いつつ、じつは大槻自身は密かに(?)褒めているのではないかとも推察するが、「それなり」どころか十分に斬新かつ興味深い作品に仕上がりつつあった・・・と思う。

 特撮ドラマと本作とは内容が大きく異なるが、なにが斬新だったかといって主人公・命光一=サンダーマスクの変身であり、同類の“変身”をする悪役「デカンダー」の正体である。ネタバレになるので知りたくない方は読み飛ばしていただきたいが、霧状と化した正体不明の生物の「分子」(ガス状の生物とも)が命光一に憑依したのがサンダーマスクであり、その間の記憶は命光一にはないというアイデア。言い換えれば肉体を持たない生命体が命光一の身体を一時的に借りるという設定なのである。
 このプロセスはデカンダーも則っており、それはやがてひとつの出会いと悲劇とをもたらす。

 ご他聞にもれず、子どものころは「ウルトラマン」をはじめヒーローものは大好きだったし、アニメでも「伝説巨神イデオン」までは夢中になって楽しんでいた。もちろん手塚作品をはじめマンガもあれこれ物色したし、SF小説ばかりを読み漁っていた時代もある。だが、こんなアイデアははたしてあのころほかにあっただろうかと思う。勝手に連想を膨らませるならば、このあと主人公とナゾの生命体との自我と自我とのぶつかり合いや葛藤といった展開も可能なハズで、21世紀に登場したとしてもなんら違和感はないし、十分に受け入れられる要素になりうるのではないか?

「バイブル」と呼ばれるナゾの文書の存在も面白い。もっと長く物語が続けられたのならば、どんな世界が描かれたのか。不可能とは知りながらも「続きが読みたい手塚作品」の筆頭格になってしまった。

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 こちらは、個人的な「サンダーマスク」発掘のきっかけとなった『封印作品の闇』。たぶん開いたのは6年以上ぶりのハズだが、あらためて優れたルポルタージュだと思った。

 大ヒットアニメやマンガなどのなかには、どういう事情か復刻版やDVD化、TV放映などが一切されていない作品がいくつもある。「サンダーマスク」もそのひとつで、著者は難しい題材に向け力の入った取材を敢行、その事実に迫っている。

 ネタバレになってしまうため詳細は割愛せざるをえないが、「サンダーマスク」のケースでは広告代理店と製作プロダクションとの間で著作権の扱いに問題が生じていたことが綿密な取材を通し窺がえている。とうの広告代理店が回答をしていないらしく、ほかの関係者らからの証言などによらざるをえないが、この種の「ビジネス」の暗部を垣間見る思いもする。

 しかし、オレが感想とは別に思ったのは、封印状態にある「サンダーマスク」やその経緯についてではなく、その後に誕生した大ヒット作がもたらしたわが国特有の弊害についてであった。

「サンダーマスク」に関連している広告代理店はあの「機動戦士ガンダム」の創通なのだが、「ガンダム」が第1作以降延々と手を変え品を変え続けられていることは周知の事実。これがオレには理解できないのだ。

 あの時代、「ガンダム」が大ヒットするなか同監督と製作プロダクションが「イデオン」を打ち出し、やはりヒットとなった。見事に次の作品を創作し、ファンを掴んだ実績があるのである。ところが、やがて「ガンダム」に席巻されてしまった(「ダンバイン」などほかの作品もあるが)。勝手な見方だが、これはまったくことなる別の創作を手がけることもできないのと同義なのではあるまいか?

「ガンダム」大ヒットとほぼ並行して、同じく人気アニメだった「宇宙戦艦ヤマト」がいくつかの続編をリリースした。その動きに対し、アニメ雑誌では揶揄とも取れる評価も見られたものだが、気がついてみれば「ガンダム」も同じザマとなったのである(「ヤマト」と異なり途絶えていないのは幸なのか不幸なのか……)。

 この延々と続く「ガンダム」は作者が牽引しているのだろか。それとも何者かが要求しているのだろうか。オレにはそこがどうにも引っかかってならないのである。

 それにしても、ひとたびヒットするや「シリーズ」と化して延々と続けるのが大好きなんですなぁ、ニッポンのエンタテイメントは。TVドラマでも「相棒」や「科捜研の女」などがいまだに続けられている(「相棒」は初期のころ「面白いじゃん」と思いつつタマに見ていたし、ともに内容を揶揄するつもりはまったくない)。このツテで行くと「サザエさん」だの「ドラえもん」、はては「男はつらいよ」はどうなんだということになってしまうが、オレ個人の感想にすぎないものの、渥美清がもっと別の主役をはってさらに素晴らしい作品が生み出されたのではないかとの想像をしないでもない(「サザエさん」の類は続編ではなく連続なので、じつはここには当てはまらないともいえる)。

 それはそれとして・・・。できるならは、ぜひ見てみたいものだ。特撮ドラマ「サンダーマスク」を。

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2020.08.15

30年ぶりぐらいの邂逅(その7)ついでに宇宙の話・・・の巻

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  まぁ……、真夏ですからо(^ヮ^)о

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  シアワセ一杯のヒメ親子。

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  さる11日、先月生まれのうち2匹が里親のもとに引き取られていった。選ばれたのは手前のおふた方。「テヤン(おひさま)」「ビョル(星)」と名づけられたそうだ。なぜ大韓語が選ばれたのかは訊ねていないが、きっとかにか感じるものがあったのであろう。シアワセに過ごしてほしい。

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  その片割れ。シッポの先が白いんですよ。前にアップした内湾(台湾の田舎町)の「線香猫」のごとし。

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  里親に出す日。

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  も片割れはユメとソックリ。わが家でそのまま育てるとしたらコユメと命名しようかと思案していた。この2匹はわりと独立心が旺盛で、ともに家族のかたまりからちょっと離れて寝ていたりもしたので、その点では安心できる。残りの2匹は一緒に穴蔵に隠れてしまったりとやや内気。たぶんオヤから離れるのはまだムリだろうなと思っていたので、以心伝心で安心ペアを引き取っていただけたワケですね。

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  深夜に居間で大暴れ。

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  アニキたちと一緒に添い寝。

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  やはり同胞意識があるのでしょうねぇ……。お尻を舐めてやったり、世話もしているんですよ。

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  ももたんとお昼寝。そいや、先月生まれは全員オスだとばかり思ったいたが、うち1匹(わが家で育てる組)がメスであることが判明。

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  わが家に残ったのは、右から1番目と3番目。それぞれ「そら(♂)」と「クルミ(♀)」と名づけた(引き取られたペアと同じく大韓語で「くむじ&オギョブ(金枝玉葉)」というのもシャレで思い浮かんだが、「くむじはともかくオギョブみたいになったら可哀想だから」とすんなり却下(大韓コメディドラマ「まるごとマイラブ」参照)。

  名前は我が母堂につけさせたのだが、「そら? いいね。クルミ? それもいいね」となんとなく決まった直後、仕事机でふと目に止まった椎名歩美おっと椎名誠の本を開いたら、ちょうどその見開きに「クルミ」の文字があって「ぁあ、宇宙だなァ……」と感心したもんだ。

  ところで、たぶんアンテナのどこかが弛んでいるのだろうが、ここ3カ月ほど、わが家ではBS放送が受信できていなかった(北風時に映るケースが多いようだ・笑)。もとよりオレはほとんどテレビなんぞ見ないからいいのだが、ときには母堂がヒマつぶしに愛用している大韓ドラマを見るともなしに見ることもある。それにしても、どれほど地上波放送を見ていないかというと(例外で千葉テレビを少々)、あの夢花火おっと「夢グループ」のおとっつぁんのCMがつい先ごろまでBSだけのシロモノだと思い込んでいたほどなのであった(BS大韓ドラマのときにタマに見かける)。ある日、地上波の某チャンネルにあのおとっつぁんが映ったのを見てちょっとばかり新鮮な驚きがありMASITAよ(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)。

  そのBSが、昨日(14日)は久々に映った(北風ではなかったと思うが)。それで、夕食後にさりげにつけてみると、あの「機動戦士ガンダム」(映画版)がおっぱじまったのである。「そいや、3本連続放映するとかどっかに書かれてあったな」と気づきつつ、懐かしさも手伝って鑑賞の巻。たぶん25年ぶりぐらいの邂逅であろう。

  で、ココからが無駄話の本題なのだが、その前夜(14日午前1時ごろ)、風呂に入っていたところふと「ガンダム」が思い浮かんだ。セイラが「キャスバル兄さんっ!」とシャアにすがりつく場面を思い出しつつ、「つまり、アレは“キャスバルおっぱぁ”というワケなんだろうな」と思ったので、風呂から上がるや自室に取って返しそのまま検索をかけてみた。

 ハングルで「캬스발오빠」である。

 そしたら、まんま件の場面の画像(大韓語字幕つき)などがお出ましになったのだが、まさかその場面をその十数時間後──それもおよそ四半世紀ぶりに!──に見ることになろうとは、件の「ガンダム」放映がはじまってしばらくするまでまったく想像だにしなかった(繰り返すが、BSはそのときには受信できないママだったから、もし放映日時を知っていたとしても見るハズもなかったのだ)。

「宇宙」とはつまりこういうものなのである。なんの役にも立たないが。

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  話かわりますけど。盟友Sが「大掃除のときに出てきた」とラーメン屋のチラシをデジカメで撮って送ってきた。「うまかろう安かろう亭」、あのオウム真理教が経営していたラーメンチェーン店である。
「おおっ、こりゃぁ貴重な資料を発掘したねぇ」
  と喝采したものだが、なにを隠そう、Sとオレとでこの店に繰り出したことがある。

  すでに教団の正体が明らかになってきていた時分だと記憶しているが、店はかなりの繁盛ぶりであった。店員が妙に明るいのが「いかにも」といった風情ではあったなぁと思わないでもないが、ラーメンの味そのものは悪くなかった。スープがややぬるいかなという気がしないでもなかったものの十分に旨いと思った。コレは冗談でなしに書いているのだが、あの味をつくっていた人間が教団からしっかりと足を洗ったうえで出直しているとしたら、その店を訪れ、また味わってみたいものだ。もっとも……、メニューにあった「アストラルドリンク」などといった品々には手を出そうという気が起きなかったが。

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  それにしても、こうしてチラシを眺めてみて思ったのは、あのケーセッキ安倍も、いっそのことオウム真理教をまねてラーメン屋経営に転身してはどうかということであった。おしながきに「憲法改正ラーメン」、「アストラルノブスケギョウザ」(阿片は入っていませんが)、サイドメニューに“ジャンクフード”を盛り合わせた「アベトモおつまみセット」なんていかがでしょうか?  ついでにトッピングも考えてみたけれど、面倒になったのでや〜めた(笑)。

  まぁ、「憲法改正ラーメン」ではないけれど、ケーセッキ安倍とその取り巻きにとっては、9条はもとより、11条(基本的人権の享有)だの13条(個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉、14条(法の下の平等、貴族の禁止、栄典)だの51条(臨時会)だの99条(憲法尊重擁護の義務=天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う)……などといった項目は、現憲法下にあって邪魔者でしかないのは明らか。もちろん「憲法改定」という考えそのものは(ひとつの考えとして)尊重してしかるべきだし、議論するのもいいだろう。だが、安倍の「改正」噺は、じつは論議にすらなっていないのではあるまいか?  こう言っては失礼かもしれないが、あのおっさんオツムのなかには、祖国日本の将来や日本国民の幸福のことなんてこれっぽっちもないと思うぞ。

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  閑話休題。そのラーメン屋チラシを眺めていてふと目を上げたところ、視線が本棚の上のほうに鎮座している『黄泉の犬』(藤原新也・文藝春秋)に吸い寄せられていった。

「あの本、たしかオウム真理教がらみの話があったな」

  と思い出し、およそ14年ぶり(奥付の日付は2006年10月30日)に黄泉おっと読みふけることとなった。

  オビに「僕は今までそれを語ろうとしなかった」とある。たとえばインドを舞台とした生々しいエピソードのいくつかが綴られている。そして冒頭の第1章。
  あの麻原彰晃の実兄と寝食をともにした一夜。麻原の故郷・八代で出会った風景と地元民の語り。さらに11年を経て得られたある事実……。これを引用していいものかしばらく考え込んでしまったが、あえてある怒りの念とともに抜き出すことにした。麻原の実兄がこの世に遺した証言である。

「あいつもこまかころは見えとった。いや今でも見えるやろ。ちっとはな」(70ページ)
「智津夫がこまかころ、ちょうど水銀がいちばん海を汚しとった時期や」(72ページ)
「智津夫は兄弟の誰よりも魚介類が好きな食欲旺盛な子での。ワシの釣ってきた魚やシャコをアイツがいつも一番食っとった。……責任を感じとる」
「………」
「そのうちの手の先がちょっとしびれるちゅうことば言い出した。
 それが目に来た」
「………」
(73ページ)
「ワシは智津夫ば水俣病患者として役所に申請ば出しとったじゃ」(中略)
「じゃが却下された」(74〜74ページ)

  こんなことを記すと誤解を受ける可能性があるが、麻原の死刑は執行すべきでなかったと思う(わが国に死刑制度がある以上、法に則って死刑の判決が確定したのは正当だと考えたうえでの話だ)。なぜなら、麻原から聞き出すべき“事実”がまだまだあったハズであり、本書が臭わせているように、この社会には“麻原ないしオウム真理教予備軍”がおそらく顕在しているからだ。その処方箋という言い方はあまりにもことを単純化しているとは思うが、我々がいまを暮らし、この先々も暮らしてゆくことになるこの社会と相対するという意味で、麻原彰晃=松本智津夫という人物と向き合うことを避けてはならなかったのではあるまいか……。

  断るまでもないが、オレは麻原の信者でもなければシンパシーの類を覚えているワケでもない。最初に目撃したのは「週刊プレイボーイ」かなにかの写真記事だったハズで、いかにもいわくありげな格好としたおとっつぁんが座禅を組んだまま空中にジャンプしているというものであった。

「うわっ、インチキくせぇ」

  とまず思ったが、記事に「空中浮揚」とあるのがどうにもげせなかったのを思い出す。だって、どう見たって浮かんでいるのではなく飛び上がっているのだから、「浮揚」ってのにはかなりムリがあったワケだ(麻原が有名人となったころ、学友が「あんなもんオレでも出来る」と座禅を組んだ姿勢で「ぴょぴょん」跳ねてみせたものだ。オレは身体が硬くて当時もいまも座禅を組めないのが残念だが)。

  その後、似たような出で立ちをした別のおとっつぁんが空中高く浮かんでいる(?)写真が載っている本を書店の立ち読みで目撃したこともあるが、オレが感じたことを要約すると「で、この浮かぶんだか飛ぶんだかってのになんの意味が?」と、そういうことになる。これをたえとえば椎名歩美ちゃんおっと椎名誠が『インドでわしも考えた』に記したように、あれこれ考える以前に素直にできごとを面白がるという姿勢もあろうし、もしシラフの目の前で「ふわっ……」と浮かんでそのまま空中に滞留でもしてくれたら「ほぉ、こんなことってあるんだねぇ」と感心ぐらいはするに違いない(もっとも、たとえばピアノを上手に弾いてみたり、帽子からハトが飛び出してみたり、ジャーマンスープレックスホールドがキレイにキマるのだって十分に素晴らしいんですがね)。しかし、麻原にせよ別のおとっつぁんのにせよ、「見世物」といったことを除けば、これといった意味があるようには思えなかった。

  どうしてこんなどうでもいいことを書き記したかというと、いみじくも同じように「それがどうした」と本書に記してあって、当時の所感と結びついたからである。連中がのたまう「空中浮揚」なんぞ、所詮はそんなもんなのである。

私は彼が涙を流さんばかりに浮遊したと言い張るので、最後には折れた。そしてこう言った。
「君は浮いた。そう言い張るならたぶん浮いたんだろうな。で、それがどうした?」
(307〜308ページ・「あとがき」)

  そのオウム真理教がラジオ放送をしていたというのは有名な話で、盟友Sとともにときおりチェックすることがあった(アサハラソングを面白がっていたということもあったのだが、あるとき、麻原が通常とは異なる声色でなにやら思わせぶりな語りを披露し、Sとふたりで「なにかやるつもりなのでは?」といった無気味な思いにかられたのを思い出す。件の大事件はその直後といっていいタイミングで起こされた)。麻原の「説法」だの、どう聞いてもデタラメのインチキとしか思えない麻原の「帰依マントラ」だのといったいかにもというコーナーはともかく、オレが不思議でならなかったのは、ノストラダムスだのといったオカルト話で連中が盛り上がっていたことであった(タテマエとしては「仏教」系であったハズなのだが?)。

  オレ自身はノストラダムスなんてどこが面白いのか子どものころからいまに至るまでさっぱり理解できないし、オカルトの類にもこれぽっちの興味もない(ただし、夜の不忍池上空でUFOらしきモノを目撃したことがある。その形状がUFO系オカルト組織の「CSETI」のマークに似ていたことがその少し後にわかって「へぇ」と思ったことはあった。どうでもいいが)。とはいえ、特殊漫画家・根本敬が記しているように、オカルトの類を全否定したうえでも、「虚数」のようなモノがあることを認める姿勢は持っていたいとは考えている(そもそも、あのケーセッキ安倍の支持者がいまなおそれ相応に存在するらしい──なんと3割以上!?──ことからして立派な「オカルト」ではあるよな。そのトンデモ事実の前には、空中浮揚だの幽霊だの超能力だのも形なしというものだが、明日あたりお日さまが西から昇るのかもなァ・笑)。

  という個人的な話はともかく、そのあたりについても、本書を通じて理解への手がかりを得ることができたように思う。

  ところで本書。末尾が迫るなか、通りすがりにサドゥから声をかけられた藤原新也がその隣に座り、会話の類があるわけでもなくただしばしの時間をともに過ごして別れた場面が語られている。素晴らしいひとときだったのだろうなぁと想像し、うらやましさすら覚えた。

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