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2022.05.25

鉄道という存在・・・の巻


 2011年7月から不通が続いていた只見線が、今年10月1日に全線での運行を再開するという。同線は豪雨の影響で会津川口~只見間において複数の橋梁が流失するなど甚大な災害に見舞われ、現在も運休が続いている。報道によれば、JR東日本ではこの7月下旬から訓練運転を開始したい意向とのことで、ローカル線をめぐる久々に明るい話題ともいえるだろう。

 只見線は会津若松と小出間を結ぶ135.2kmの非電化路線で、断るまでもなく第一級の赤字ローカル線である。ややもすれば国鉄再建法下で廃止される可能性があったものの、沿線が屈指の豪雪地帯であり、かつエリアにおける道路整備が不十分であったことなどから廃止を逃れた経緯を持つ。さらに民営化後も度重なる自然災害を蒙り不通が続発するなど、ひときわ厳しい経営状況にあることは想像に難くない。

 10月の運行再開にしても、会津川口~只見間で運行を予定していのるのは、1日わずか3往復という有様である。個人的に、日ごろJRグループに対し厳しい見方をしているが、今般の只見線の復旧についてはJR東日本の“英断”なくしてはなかったと思う。加えて沿線自治体や住民らの努力も大きな力になっているせよ、JR東日本の努力を賞賛したい気持ちだ。

 しかし、一方でJR西日本やJR北海道が各地で赤字路線の廃止を臭わすなど、ローカル線をめぐるキナ臭い話題には事欠かない状況にある。

 そして、そうした報道があると決まって「赤字だから仕方がない」だの「鉄道会社も営利法人」だのといった論が巷を賑わす。それは一面では誤りではないかもしれないが、はたしてそのとおりだと断言できるだろうか。

 JRグループはその一部が株式上場を果たすなど、いまやれっきとした民間企業として鉄道を中心とした経営にあたっている(大赤字で先行き不透明のJR北海道みたいな企業もあるが)。

 JR以外でも大小の民間企業が鉄道事業を運営している。それら民間企業の目的は「株主の利益」であり、あえて意地の悪い単純化をするのであれば、けっして地域住民や自治体、企業などのために鉄道を経営しているのではないだろう。

 しかし、国鉄を母体とするJRグループと、純粋な民間鉄道企業との間には大きな違いがある。

 国鉄は国策として交通インフラを拡大し整え、国民の足や物流の一端を担ってきた。その一方で、民間鉄道企業は交通事業を担うと同時に、自らが「まちづくり」の主役を率先してきたという一面がある(すべての企業がそうだとは言わない)。その「まちづくり」にしても利益を出すという目的はあるにせよ、鉄道などの交通網を整え、沿線郊外などに大規模な宅地を開発し、商業施設や文化施設なども整備するなど暮らしの環境を整えてきた。対する国鉄は、わが国の鉄道網の核として全国津々浦々に路線(鉄道・バス・船舶)を築いたものの、「まちづくり」の任は国策として背負わされず、したがって住宅地開発や独自の商業施設などで利益を確保することが叶わなかったという違いがある。いわば民間鉄道会社が総合企業だったのに対し、国鉄は交通専門企業体だったのだ。

 なにが言いたいか?

 JRグループ(第3セクター鉄道を含めてもいいかもしれない)とそのほかの民間鉄道はそもそもの役割が異なっていたハズなのである。純粋に「株主の利益」が最大の目的であった民間企業と、国策として国民・国土の交通部門を担うことを目的としてきた国鉄。それが国策によって民営化されたからといって「株主の利益」を目的としていいというハズがない(これは郵政や通信、電力などさまざまな分野に共通する)。また、いかに大赤字を抱えての“起業”だったとしても、その原資は国民の財産だったのである。

 この解釈は、JRグループが赤字を理由に自社路線を廃止していいのかという疑問につながる(もうひとついえば、国鉄から経営を引き継いだ段階である一定以上の赤字路線の多くが切り捨てられたか切り捨てを前提としていたではないか)。やや単純化にすぎるかもしれないが、昨今のJR西日本による一方的な「赤字宣言」は自らの存在意義と役割を本質的に理解していないがゆえの暴挙であり、「民営化」とともに勘違いが生じたのか、極度の「カネモウケ小児病」を患っているとしか思えない(ついでにいえば、その「カネモウケ小児病」の顛末のひとつが、あの福知山線脱線事故であった。鉄道ではないけれど、知床における観光船事故もそのひとつかもしれない)。

 最近ネットで見た「論」のひとつに、ローカル線を残すことを目的としていうのはどうかというものがあった。それに直接的に関連しているワケではないが、反論の代わりとしてつぎの一文を引用しておきたい。

>鉄道というのは、単なる乗りものではなくて、制度なんです。(中略)自動車は、文字通り乗りものです。運搬の手段です。しかし、汽車は制度です。鉄道が敷かれるということは、単に運搬の手段が出来るだけでなく、一つの文明が来る、制度が来る、秩序が来るということを意味します。だから人々は、自分の町に鉄道がくると安心する。そういう意味で、鉄道は常に、定着なり、安定なりをめざすものなのです。

>鉄道はそもそも、町をまとめあげる方向に働きます。駅でしか乗れないのですから、その周辺に否応なしに人が集まるわけですね。一方、自動車は、どこにでも止まれますから、町を分散させる方向に働きます。つまるところ、町とか、タイムテーブルのような制度をつくり上げるのが鉄道ですから、これはまさに、町、制度としての「市」にほかならない。(『椰子が笑う汽車は行く』宮脇俊三/文春文庫の巻末解説から山崎正和さんの発言より引用)

 この発言のすべてが、赤字云々の議論に当てはまるかどうかはともかく、鉄道の立ち位置、その存在意義の一面を鋭く捉えていると考える。

 鉄道や駅がなくなったからといって──そもそも、せっかくあっても乗りもしなければ駅にすら訪れないということは、残念ながら当然のようにある──大きくなにが変わるワケでもないのかもしれない。しかし、引用した発言の語るところについて、何度立ち止まってもいいから、自ら反芻してもいいのでかないだろうか。


 

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