ビルマ関係の本・・・の巻
つい先日、ふと思い出し『アヘン王国潜入記』(高野秀行/集英社文庫)を一読。本書はだいぶ前から知っている本だったが、手に取るタイミングを逃したのか、ミャンマー(ビルマ)の国内事情などについて考えているさなか、いまさらのように手に取ることとなった。
ビルマ・タイ・ラオスの三国にまたがるアヘンの一大産出地帯。本書は、俗に「ゴールデントライアングル」とも呼ばれたそのエリアに潜入し、そこで暮らすワ族の村においておよそ7カ月におよぶ現地生活を送ったその体験記である。
探検でもあり、文化人類学調査的でもあり、冒険的でもある。視点と考え次第で、さまざまな切り口で現地報告をすることが可能だと思うが、著者はあえてジャーナリスティックな視点や技術を排除し、学問的な記述もおそらくは最大限に近く避けている。
ときにそのスタイルゆえの物足りなさを覚えなくもなかったが、あえて文章となっていない体験や研究があればこその滞在記であり、非常に読み応えのある内容だと思った。
つかの間の滞在地探しから村人とのふれあい、食事、マラリア闘病、村はじめての学校で教壇に立つ、突然の知人の死と葬儀、“町”と村──ほとんど下界と天界、あるいは彼岸と此岸と呼んでいいかもしれない──との対比、そう遠くない過去まで「首狩り」の風習すらあった村に陰影をもたらすワ軍という存在……。それらがじつに生き生きと描き出され、ページを進むごとに「面白いっ!」とうれしくなったjものだ。
この地域は、かつてビルマ共産党の支配下にあった。ところが、著者によれば村はそれ以前から「原始共産制の域を出ていなかったと思われる(89ページ)」暮らしをしており、皮肉にもビルマ共産党の侵入がそれを反故にしてしまったと見られるという。
>ワ州は原始共産制を共産主義が破壊した稀な例なのである。(95ページ)
非常に興味深い発見・視点だと思った。けっして豊かで平和とはいえなかった村に進入した西洋発祥の政治理論とそれを動かそうとする集団がなにをもたらしたのか。探究心を刺激する話がつぎからつぎへと飛び出してくるのである。
著者自身がアヘン中毒になったのも空恐ろしい体験談だが、そこから学べる事実も多い(なにもオレ自身がアヘンなどに手を出そうという意味ではないが)。
こうした体験や記述を通し、読者はミャンマー(ビルマ)という「国家」が抱える諸問題や歴史へと興味を引かれるに違いない。正直、オレ自身はクーデターを起こしたミャンマー軍がいったいなにをしたいのか、いまひとつ理解できないままなのだが、本書を通して理解への糸口が少しだけ掴めたようにも思う。
ところで、いまひとつ興味を引いたのが「文庫版あとがき」であった。
本書となった原稿は、帰国後にアパートの自室で半年ほどをかけて書き上げたという。出版社に持ち込んでは断られるを繰り返し、草思社から単行本を上梓したわけだが、なかなか日の目を見なかったというのだ。書評に取り上げられることもない。たとえば本多勝一や植村直己の名前を挙げるまでもなく、探検や秘境などを題材とした本はそれ以前から実績があったなかでなんとも不思議な気もする。そして・・・
>私がゴールデントライアングルの核心部に行ってケシ栽培をしてきたと話すと、たいていの雑誌や新聞の人たちは「それは日本とどういう関係があるのか?」と訊いてきた。
(中略)
私が日本人である以外は、何も日本とは関係はない。ただし、世界や人類と深い関係はある。(中略)
わかった。日本ではダメなようだ。ならば、ほんとうに世界ではどうなのだ? (372ページ)
著者は本書の英語版の発売まで実現したそうで、日本国内の英語新聞などで高評価の書評がいくつも掲載されたのだという。
まぁ、ここで毎度おなじみの祖国のザマへの嘆きにもなってしまうのだが、「それは日本とどういう関係があるのか?」とは、救いようのない能無し連中がいたものである。そもそも関係どうしたというのだろう? 仮にそれでは売れないからというのだとすれば読者の側にも責任はあるかもしれないが、あにはからんや、本書はそれ以後いまだに文庫化してまで読み継がれている。
ところで、本書中の描写で「ウゲッ!」と引いた箇所に、子持ち豚を屠って料理する場面がある。ここは著者自身も直視に耐えられなかったようだが、ワ族の村では葬儀や婚礼、別れの儀式などのさいに貴重な家畜を屠って村中にふるまう習慣があるという。著者も、離村前に滞在の礼にと水牛を購入し、それを村人が屠って料理している。
そこを読みながら、「ん? なにか似たような場面が、それもビルマであったな」と気がついた。
記憶を辿ったところ、だいぶ前に読んだ『アーロン収容所』(会田雄次/中公文庫)だと気づいたが、合致しているのは動物を屠って食べるところだけであった。しかし、『アローン~』に無視できない記述があるのを再確認したので、ついでではあるけれど、蛇足をしておくことにした。
『アローン~』は第二次大戦の敗戦とともに英国軍の捕虜となった著者がその体験を記したもので、文章の面白さもさることながら、貴重な記録ともなっており、学ぶべき点も多いと思う。体験を通し、素直な気持ちを書き記しているところもリアリティがあり、よくぞ書き残してくれたものだと先人を偲んだものだ。
そういいながら重箱の隅をつつくようだが、問題の箇所にはつぎのように記されてある。
>日本人は何千年来、家畜を飼うという経験をしなかった。とくに食糧としての家畜を飼うことをまったく知らなかった。つまり日本人は一般に家畜の屠畜ということに無経験な珍しい民族なのである。同じアジア人でも、中国人やビルマ人は屠畜に馴れている。それ以上にヨーロッパ人は馴れている。(66ページ)
鋭いというか、常識のある人であれば、この記述に首を傾げるに違いない。
まず、日本人が何千年来も家畜を飼うことをまったく知らなかったとは、寡聞にして存じませんでした。
家畜の屠畜ということに無経験な珍しい民族というのも意味不明。ごく普通の農村などでも、ニワトリはもちろんウサギなどの「家畜」を屠って料理した話はいくらでもあるし、戦時中にはその毛皮を軍に納入したではないか。ウサギなど家畜にあらず? 東北の曲り家では馬などを飼っていたが、あれは家畜でではないのだろうか(食用ではなく労働力としてであったが)。馬といえば「桜肉」だが、熊本県域や長野県域などで古くから食べられてきた歴史がある。また、旧石器時代には狩猟によって動物を捕らえ、屠っては食用としてきたし、農耕が拡がってからもイノシシやシカなどを同様に食料とし、戦国時代にはブタが食用として家畜化されていたではないか。
たしかにオレ自身は屠畜の経験はないし、著者も恐らくはそうだったのであろう。だがそれはたまさかそういう必要のない環境で暮らしていたがゆえであり、日本だの民族だのという一般化できる話ではない。逆に、著者が屠畜民族と定めているヨーロッパにしても、同じである。ショパンやベートーベンが家畜なり野生動物なりを自らが屠って食っていたなどという話は聞いたことがないし、そもそもヨーロッパにせよ中洋の一部にせよ、古代から農業が盛んだったのである。
一方、家畜が遠い昔──たとえば旧約以前──から欧州や中洋で飼われていたことは事実だが、それは食肉のためではなく(食べることもあったろうが)、おもに乳製品を生産するためであったり、糞を農地の肥料とするためであった。それに、ローマ帝国時代などでは庶民にとって肉は貴重品だったのである。たしかに飢饉でも起きれば農作物が著しく不足したのは当然で(これは日本でもまったく同じ)、本書に記されているようにヨーロッパでは穀物が到底足りず、それを補うために(食肉用の)家畜を飼育したなんていうのはまったくの勘違いである(そもそも、その家畜を育てるには穀物などが必要だったのでは? 牧草を与える種もあるが、それだって気象に影響されるのである)。
なんとも不見識かつ不用意な記述だと思うが、恐ろしいのはこういう誤った前置きを前提として、日本軍の暴虐を虐げられた側の「印象」(言い換えると誤解)としていることなのである。
>かれら(引用者注:英国人やビルマ人など)はこの動物の屠畜とその屍体処理に馴れきっている。
それに対し日本人は、本来的にそういう経験を持っていない。私たちは血を見て逆上する性格がある(引用者注:「私たち」とは誰を指すのか?)。戦場の捕虜や原住民に対する傷害行為は、どこの国にも共通にあるとしても、日本のそれは逆上的な傷害になる。滅多打ちにしたり、死んでからも狂気のように突いたり切ったりする。そこがヨーロッパ人には残虐という印象をあたえるのだと思う。しかし、それが残虐と言えるだろうか。(66ページ)
よくもまぁこんなに残酷かつ不見識な言い訳を堂々と記せるものだと空恐ろしくなった。こんなセンスが「日本民族」やら「日本人」やらのスタンダードだとは考えたくもないが、あまりに無知であり、諸外国からの怒りの意味が真に迫ってくるようだ(だからといって英国や米国の残虐・暴虐ぶりを擁護しようなどという意図はまったくないので念のため。あくまで我々日本人自身の問題として取り上げている)。
なんだか話がだいぶそれてしまった。今宵はこのへんまでにて……。
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