戦争と原発が頼みの綱・・・の巻

年末。数年ぶりに『初期のいましろたかし』(いましろたかし/小学館)を読む。
個人的にあの「ハーツ&マインズ」にタイムリーでシビれたクチで、いま改めて読み返してもそれは変わらない。
箱にも記されているとおり、かの作品が世に出たのは1989年。日本はあの“バブル経済”まっただなかであった。まさにその年に社会人となって某企業に勤めることとなったが、たしかにしばらくの間は「なにをどうやっても売れる」という一面があった。ではそれに比して月給なり賞与なりが上がったのかといえばそんなことはまったくなく、いま思い返しても、あれだけの粗利を出して、財務がどのようになっていたのかとの疑念をぬぐえない。一方で上司や先輩らに恵まれ、いろいろと教わることも多く、そういう意味では充実したころだったと思う。
それからだいぶ経って、とある人物からこんなことを言われた。
「バブルのころは(あんたも)いい思いをしたんでしょ?」
その途端、手加減なしにぶっ飛ばしてやろうかと思ったが、もちろん思っただけの話で、その代わりにつぎのように答えて差し上げた。
「給料などおカネという意味ではまったく、100%なかったですね。なにしろ、半期ごとの営業最優秀賞とやらをもらったはいいものの、単なる紙切れ(B5サイズの賞状──その日のうちに行方不明だな、そいや)と副賞が「ビール券」。それが実態だったワケですから」
ここで「おおっ!」と思った方は鋭い。
そうなのである。「ハーツ&マインズ」のエピソードに、レギュラー的登場人物である山下さんと岡田くんが満を持していただいた「賞与」がなんと「ビール券」だったというのがあるが、あれと似たようなことが実際にあったのである(くどいようだが、当時の年商100億円超の中企業の正社員に出す「営業最優秀賞」とやらが「ビール券」だったのである。もちろん賞与にそんなものは反映された覚えがない。もとより、「営業最優秀賞」といったところで、それは現場の販売担当者や企画・生産の実力や努力、さらには得意先との連携があってこそのシロモノなので、本来はオレがもらうべき「賞」の類でないのは言うまでもない)。まぁ、コレに関していえばなんかのときに使える「笑い話」を提供してもらったと思っているが、真面目な話をするのであれば、なんでも売れたようなあの時代に、雑な商売を覚えてしまったことの害悪と反省のほうがよほど重要ではある。
さて、「ハーツ&マインズ」の山下さんがあるときつぶやいた。
「戦争と原発が頼み綱だ……」
さすがにもらったのが「ビール券」だったからといってそんなことを考えたことはないが、意味はオレなりにわかる。
そして、このごろになって“ブーム”のように繰り返される自虐的凶悪犯罪。
自殺しようと思った。銃殺されたかった。
そんな絶望が、他者への殺傷行為に発展する現代ニッポン。
あの藤原新也が『東京漂流』などで触れた深川通り魔事件のKは、社会から取り残されるという恐怖にさいなまれ、それがごく普通に社会生活を送っている人々に対する憎悪に収斂されていった。
「子連れの家族を見ると腹が立つ」(『東京漂流』からKの弁)。
一方、山下さんの場合はほとんど他力本願で、戦争が起こるなり原発の大事故でもあれば、金持ちも恵まれた待遇のヒトも異性に不自由していないヒトも自分(山下さん)みたいなカネも女もまともな仕事も友人もないような都会のどん底のようなヒトもみな平等。したがって、Kや昨今のような凶悪犯罪には走らないワケだ。
しかし、昨今の凶悪事件を起こしている“自称自殺志願者”の想念が、「戦争と原発」に発展しないとは限らないのではないか?
どういうことか。
オレは、たとえばあのケーセッキアベやその一派、さらに関西発ゴロツキ軍団の熱烈的支持者の一部に、こうした「戦争と原発」願望が潜んではいまいかとかねてから考えているのである(オウム真理教もそれに近いと見ることも可能かもしれないが、オレはこの両者には大きな違いがあると見ている)。
「戦争と原発が頼みの綱」
言い換えればこの世のリセット願望である。
日の目を見ない自分。自分は将来にわたり日の目など無関係。そんなものはコンピュータゲームのようにリセットしてしまえばいい。そのための救世主がケーセッキアベであり、関西のゴロツキどもだと思い込んでいるとしたらどうか。
こんなことはオレ個人の穿った妄想にすぎないことは承知しているけれど、続発する“自称自殺志願者”による凶悪犯罪を前に、ついこんなことまで連想してしまうのである。
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