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2021.10.21

母なる地球・・・の巻



 普段、テレビはほとんど見ないが、それでもいい番組と出会うこともあって、見入ってしまうこともある。
 つい先日、なんとなしにテレビをつけてたさいに遭遇した「シリーズ〝2030・未来への分岐点〟暴走する温暖化」(NHK-BS1)もそのひとつ。地球温暖化をテーマとしたドキュメンタリーで、なにかと考えさせられることも多かった。ここではその詳細を省くが、関連して思い出したのが『沈思彷徨』(藤原新也/ちくま文庫)である。


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 本書は、以前にもこのブログで紹介した。藤原新也の対談やコメントをまとめたもので、1996年10月にちくま書房から単行本で刊行されている。筑紫哲也やビムベンダース、沢木耕太郎ら多彩な対談が収録されているが、つぎに引用する小説家・日野啓三と対談「地球が姿を見せてくれる時」は、いままさに──対談からすでに四半世紀以上が経ってしまったが──広く読んでほしい内容が含まれていると思った。少し長くなるが引用する。

われわれの自然観というのは、非常に面倒見のいいおふくろさんだと思ってきたんです。たとえば、ちょっとやそっとものを投げたって、汚したって、ちゃんと尻ぬぐいをしてくれる。実際、いままでは尻ぬぐいをしてくれたわけです。ところがついに尻ぬぐいできないほどわれわれが大きくなったでしょう。そうすると、自然というものはおふくろさんではなくて、むしろこっちが養わなきゃならないものだ。

(中略)あの『自然に』はまさに何もしなくたってやってくれるという語感があったけれども、これからは『自然に』という言葉をそのまま使ってはいけないなと思った。

 これは二十世紀という百年間の歴史のなかでとても大きいことでしょう。自然に戻れというけれども、戻れないんだな。人間が強力になりすぎちゃっているから。むしろ自然のほうをいたわってあげなきゃいけなくなってきた。
(日野:251ページ)

 ハっとさせられたとはこのことではないかと思った。残念ながら、すでにこのとおりになっているからこそ自然・地球を慈しまなければならない。目下、少しずつであろうと一部で進められつつある「温暖化対策」のすべてが的をえているかどうかはわからないが、母であり故郷であり、唯一暮らすことができる地球の環境を大切にすることについて異論を唱えることはできないハズだ。それもすでに大切にするという段階を越え、ニンゲンの側に相当の覚悟と労力とを要求されているのである。

その『自然に』という感覚は日本人の中で美化されて来たが、ある臨界に達したとき自然に対して『無責任に』という行動に反転する。日本の漁民というのはビニールであろうとバケツであろうとどんどん海に捨てますからね(※引用者注:事実である。もちろん例外はあるし時代を経て変わってきた面もあるのかもしれないが、同様の所業が『日本海のイカ』(足立倫行/情報センター出版局)などでも記されている。オレ自身もショックを受けるとともに呆れ返ったことがある)。何でもおふくろが全部浄化してくれると思っている。(藤原:251~252ページ)

超高層ビルをバカバカ建てるでしょう。新しい超高層ビル、またできたなと思うと、ふっと、あの五十階のところでみんながおしっこをしている情景が浮かぶのね。どこへ行くのだろうと(笑)。すばらしいきれいなものができたというんじゃないんだな。五十階分のおしっこをどうするんだろうと思うようになっちゃった。(日野:252ページ)

 ──言うまでもなく、原子力発電所もまたここでいう「おしっこ」を増産し続けている──。

 じゃぁどうすりゃいいんだよという声も聞こえてきそうだが、いままさにその道筋を決める岐路に人類は立たされている。件のドキュメンタリーではEUの取り組みなどが紹介されていたが、日常生活の細かなところからヒトやモノの移動、経済格差問題──ごく単純化するならばカネの使い方だ──など多方面からこの問題にアプローチせざるをえないのではないか。

 もはや母なる大地・地球は我々を守ってはくれない。むしろ我々こそが守ってやらなければならない。
 これはまさにこの世の摂理だと思うのだ。

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