ペテンヒット天国・・・の巻
前回に引き続き、大掃除の末に発掘……おっと、再会した本を題材にちょっとした所感などを綴ってみたい。
>名物ババアがいたんです。酒が大好きで、公園でオヤジたちが酒飲んでるのを見ると、ねだってビンごと持っていってしまうババア。(中略)公園にいたオヤジたちが、そのババアのことを話してたんですよ。「最近の女は恐くなった」って。最近の女全員を、こいつで代表させるのはマズイ気がしますけど(笑)。(『セックス障害者たち』バクシーシ山下/太田出版・170ページ)
かつて、このくだりを読みつつ「ぁあ、ええ話だなァ」と大爆笑したものだったが、ィ世の中というのは「最近の女全員を、こいつで代表させる」ような“評論家”やら“文化人”やらが、跋扈しているものだ。
本書『にせユダヤ人と日本人』(浅見定雄/朝日文庫。以下、本書)も大掃除のさい10年ぶりぐらいに書庫の山から発掘された1冊。「こっちだけを読むのは不公平だろう」と、本書で論評されている相手方『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン/山本七平/角川文庫。以下、「原著」)も高田馬場のブックオフの105円コーナーで買ったのだが、残念ながらそちらのほうは行方知れずのママである(途中であまりにアホらしくなって最後まで読み通さなかったのは覚えているが)。
ともにだいぶ以前の本であり、いまさら感想を記すのもどうかと思う。しかし、祖国の昨今を見るにつけ、自分なりに触れてみるのも悪くはないと考えを改め、ささやかながら駄文を連ねてみることにした。
>「イザヤ・ベンダサン」こと山本七平氏の言うこと書くことは、すべてこのやり方(引用者注:「最近の女は恐くなった」式ということ)でつらぬかれている。ニューヨークのホテルの架空のユダヤ人を世界中のユダヤ人と一緒にしたり、日本人自身もあまり読んだことのないような昔の本をわざと引用して、日本人は今でもみんなこれと同じだなどとやる。(中略)一つのちょっとした例から直ちに「日本人は……ユダヤ人は……」とやる。二千年以上も昔のユダヤ人や江戸時代の日本人が、生きた化石のようにそのまま今日のユダヤ人、日本人だと断定される。
上の引用は、本書冒頭の「まえがき」からである。
本書は、「原著」の“書評”を軸に、その事実上の著者である山本七平式論法を喝破、ことごとくその正体を明らかにしたノンフィクションである。
題材とされた「原著」はとある米国人によってつぎのように紹介されている。
>一九七〇年に東京のあまり有名でない聖書関係専門の学術出版社から出るとすぐ(中略)天井知らずのベストセラーとなった。
有名人はみなこの本を読んだ。元総理大臣の佐藤栄作氏は国会でこの本を引き合いに出した。中曽根康弘氏も、また天皇の義妹にあたる秩父宮妃殿下も、この本を話題にしていたそうである。ほとんどすべての言論誌が書評をのせ(後略。150ページ。B・J・シュラクター氏の書評の冒頭)
生憎といおうか、オレ自身はそのブームを体験してはいない。一方で、そのテの「日本人論」だのはあれこれ遭遇してきたし、原著で語られた「日本教」だのといったことについても目にはしていた。もっとも、そのテの話に興味はわかなかったし、うさん臭さすら覚えたものだ。原著について、つぎのような指摘もされている。
>彼の論のすすめかたが、日本人を興がらせたのに違いない。もしこの本が日本名のだれかによって書かれていたとしたら、著者はほとんど即座に軍国主義者またはウルトラ右翼のレッテルを貼られ(以下略。本書152ページ。同上)。
■嗚呼、「日本教」!
その「日本教」ないし「日本教徒」について、「原著」では第7章「日本教徒・ユダヤ教徒──ユーダイオスはユーダイオス」から3章にわたって述べている。
どうやらこの論にはかなりの人々がケムリに巻かれたようで、本書で紹介している米国人の書評でも「最良の部分」(154ページ)とされている。では、本書のつぎのくだりはどうだろうか。
>一般論として、ごく大まかに、比較的多数の日本人に当てはまるような特徴がないかと言えば、それはあるに決まっている。ただしそれなら、インド人にもスペイン人にも──要するに一つの文化的まとまりを持った住民には必ずあるものである。ましてその「日本人」の特徴が、有史以来一度も安全と水に困らなかったとか、汚物の中で悲鳴をあげている犬をムチでたたいても虐待と感じないとか、一億総イライラだとか、戦争というものを全く知らないとか、政治の「低能」でないとか、全員一致の拘束力を持つと同時に持たないとかでは、話にもならない。(本書89~90ページ)
まったくもってそのとおりなのだが、「原著」の「日本教徒」をめぐってはさらにケッサクなお話が述べられている。すなわち、日本人はキリスト教にせよなんにせよ、いかなる宗教を信仰(「改宗」とされているが)しようと、しょせんは「日本教徒」にすぎないというのである。
にゃるほど。
しかし、その根拠というのが、「日本人キリスト者」をギリシャ語に訳し、再び日本語に訳すと「日本教徒キリスト派」になるからだというのだからわからない。ようはギリシャ語の「ユーダイオス」というのが「ユダヤ人」のことであると同時に「ユダヤ教徒」のこと(太字部分・本書76ページ)なので、日本人はどこまでいっても「日本教徒」だと主張したいらしいのが……(゜゜;)(゜゜;)(゜゜;)?
正解は、本書で述べられている。すなわち、聖書時代にはユダヤ教は基本的に民族宗教だったため、「ユダヤ人」といえば大体ユダヤ教徒だった──ただそれだけの話であり(つまり、「原著」にあるギリシャ語云々は大ウソ)、くわえてギリシャ語がどうだからといっても「日本人=日本教徒」だという根拠になりえるはずもないのは、常識以前のレベルでだれにでもわかることである(太字部分・本書78ページ)。ところが、そんなでまかせの大ウソを根拠にでっちあげたハッタリに騙されたひとが大勢いたというのだから、世の中というのはわからない。
ついでに……。
キリスト教に改宗した日本人がどうして家に仏壇をおき、新年に神道の神社にお参りできるのかという米国人の(英語版)の書評中の疑問に対し、本書ではこう説いている。
家族の中のある個人だけがクリスチャンである場合は別として、こんなことは、今日大部分のクリスチャンホーム──山本宅を除く──には当てはまらない。(本書154ページ)
「原著」はのちに英訳されアメリカ合州国で発売(本書で指摘されているとおり、「原著」は英語から山本さんが翻訳したというギミックなのに、その日本語版を英訳して発売するという摩訶不思議・笑)されたものの、ほとんど相手にされなかったそうである。かいつまんで言えば、ユダヤ人関係の記述がほとんどすべてデタラメであることが容易に見抜かれてしまったことなどにもよるらしいが、一方で「ノンフィクション」本としていまだ版を重ねているというニッポンという国のザマこそが、案外「日本教徒」(こんなことは日本人のひとりとして言いたくはないが「馬鹿」と同義か?)を体現しているのかもしれない。皮肉なことである。
■ああそうですか(笑)。
さしあたり有名な「日本教」を取り上げてみたが、本書に「この本は一頁のこらずおかしいので、細かく見て行くときりがない」(14ページ/はじめに)とあるとおり、いちいち紹介していったら、それこそ無限の大事業となってしまいかねない。そういう意味で、「原著」はおそるべき大ケッサクではある。それは書かかれてあることの単純な間違いや意図的な誤り、それらを悪用した詭弁の類に満ちていることにくわえ、著者自身がなにを言いたいのかご自分でもわかっていらっしゃないのではないかと思われる個所がそこここに現われているからである。
あの本多勝一によれば、「原著」ブームのころだと思われるが、単行本のオビにこんな惹句があったという。すなわち「全員一致の審決は無効」。
この惹句は「原著」の第6章『全員一致の審決は無効──サンヘドリンの規定と「法外の法」』が出所のようだ。ところが、本書ではこの章の見出しを「全員一致は有効」としてある。その書き出し──
>この章もまた、聖書学と「ユダヤ」学のイロハを知っている者にはお笑い草としか言いようのない章である。全体の論旨を要約すると──といっても、めちゃくちゃな論旨を要約するのだから、こちらの苦労も評価してほしいと思う──(後略。本書64~64ページ)
つづいて、その「お笑い草」でしかないその根拠をわかりやすく解説している。その内容はここでは割愛するが、ケッサクなので1カ所だけ引用してみたい。
>従ってまた、こんな「ユダヤ人」との比較で次のような自家撞着の「日本人」論を説かれても、私たちとしては、「ああそうですか」と聞き流すほかはない。
「日本では、全員一致の議決は、最も強く、最も正しく、最も拘束力があると考えられている」(101~102頁)。ああそうですか。
「日本では、満場一致の議決さえ、その議決者をも完全に拘束するわけではない」(105頁)。ああそうですか。(本書73ページ。引用者注:「原著」のページは本書では漢数字)
じつは、こうのは「原著」のあちらこちらにあり、そのいくつかを本書でも指摘している。まさに「舌の根も乾かぬうちに」自分の言ったことを否定しているのが「原著」というワケだが、このテの記述は「原著」に限らず山本さんのご著書で山ほど見つけられるということが本書で暴露されている(また、ご自分でもわからなくなると、<「説明するまでもなかろう」なとと書いて、分からないのは読者の頭が悪いせいのように思わせる。これは『日本人とユダヤ人』以来山本氏が繰り返し用いている常套手段である>(本書257~258ページ)とも)。
それでふと思い出した。前回アップで紹介した『自公連立解体論』(白川勝彦/花伝社)で綴られているつぎの記述である。
>靖国問題についての安倍氏の答弁である。村山談話や河野談話を引き継ぐといいながら、これを否定するようなことを平気でいう。言っていることが矛盾しているのである。松岡農林大臣の光熱費問題に関する答弁など、いっている意味が日本語としても理解できない。(前掲書154ページ)
う~~む……。「意味が日本語としても理解できない」あたりまで、両者(ケーセッキ安倍サンと山本七平さん)は似ているのかもしれないなァなどと思ったものだ。
■陰鬱な歴史は繰り返される?
>ところで日本という国は──というよりこの国のマスコミ界は──一度何かで名が知れると、あとはどんな専門外の方面でもひとかどの権威者としてまかり通るところである。(本書240ページ)
これは右だの左だのといったことは一切関係なく、専門外のことを大学教授の肩書きで売っているような例を含め、挙げればキリがない。しかし、くわえて注視しなければならないのは、この記述につづく本書のつぎの指摘であろう。
>山本氏のこれほどの「権威」の原点はと言えば、それはひとえに、彼が「ユダヤ教」や「聖書」に強くて、その観点からユニークな日本人論を展開してくれるという評判にあった。日本人の外国文化コンプレックス(劣等感と優越願望と)を巧みにくすぐったのである。彼の書くものが事実関係でも論理の上でも矛盾だらけであることは、「裸の王様」と同じで、少し立ち止まって考えればだれにも分かるはず。それが見過ごされているのは、たぶん読者の目が、そうした願望や感情で曇らされているためである。(本書240~241ページ)
これは、じつはいままさに起きている動向でもあり、ゆえに薄ら寒いものを感じないではいられない。「クールジャパン」だの「日本すごい」だのといった類のテレビ番組もその流れにあるとオレは見ている。もちろん、祖国やその文化のいいところを知ることは大切だが、もしそこに心地のよさばかりを求めているのであれば、これは非常に懸念すべきことだという気もする(それと隣り合わせで「嫌韓」だのといった流行りが出てきているのも絶望的な気分になる。また、歴史的「事実」を明らかにしようとしているのを「自虐」だの「反日」だのと片づけるのも同類)。
>もっとこわいのは、昔もこういう種類のデタラメ「文化人」の協力でファシズムがやって来たし、こんど来るときも同じだろうということである。(本書末尾283ページ)
だからという話でもないが、本書『にせユダヤ人と日本人』をあらためて一読する価値があると断言したいのである。再会すべき本と再会できたことがうれしい。
■おまけ
ところで、「原書」は見方によってはお笑いネタ満載の「奇書」と捉えることも可能である。バロウズもビックリといった類のトンデモ文章ゆえ、マトモに読もうとするとこっちのアタマがおかしくなってしまうかもしれないが。
せっかくなので、本書が指摘している「原著」のトンデモ文章の一例を引用しておこう(さきの「ああそうですか」もその一種)。
>「政治上の問題は徒らな議論を生むだけだから、習慣とか礼儀とかの面に限ってみよう」(六五頁)。この言葉の直後に取りあげられている話題は、オリンピックで自衛隊に「祝砲」をうたせることの可否であり(六五ー六六頁)、またさきおととし(一九七九年)法制化(習慣ではなく法による強制)をめぐって国論を二分させた元号問題であり(六七ー六八頁)、そして「革新陣営」の非武装中立論に対する批判である(六九ー七〇頁)。政治がらみでない話題はひとつもない。(本書51ページ)
わはははは。ほかにも英語の原文を見なくても一読して大胆な誤訳だということがわかるような本を訳者として大いばりで出版していたり、よくもまぁこんなスゴイ御仁が「文化人」としてもてはやされたもんだと驚かされるとともに失笑せざるをえない事実を全編にわたり暴露してくれている(断わるのもヤボだが、「揚げ足取り」とはまったく異なる)。未読の方がいらしたら、ぜひ御一読いただきたいと思う。
くわえて仰天せざるを得ないのは、ウソと誤魔化しだらけの「原著」が、こともあろうか「ノンフィクション」の、それも「権威」があるらしい賞を受けていることであろう。
オレは思ったね。たとえば、韓国人の偽名を使い(もちろん翻訳者はオレだ)、韓国や韓国人の「トンデモ実態」をあますことなく「暴露」した「ノンフィクション」を出版。それで狙いどおりに件の「ノンフィクション」賞を射止めたその「表彰式」で、「あれはぜんぶつくり話。どこをとってもフィクションでありノンフィクションなんかじゃないのよん♪」などと暴露したらさぞや痛快だろうなァ……なんてね(笑)。
それにしても、「原著」は山本さんご自身の出版社が初出だからともかくとしてほかの出版社から出された著作も多く、するとそこで関わったハズの編集者らはいったいなにをやっていたのかという疑問にも辿りつく。原稿を受け取ってわかりづらい箇所や疑問点、あるいは明らかな誤りがあれば、書き手に問い合わせのひとつでもするのが常識なのではないかと思うのだが、それほどに山本七平さんという人物は「巧妙」だったのだろうか? 氏の文章を読む限りは、とてもそうは思えないのだが……。
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