こんな旅の本を読んでます(日本編)...の巻
前回取り上げた本多勝一氏『新・貧困なる精神 携帯電話と立ち小便』(講談社)には「百名山」に関する著者の所感が何カ所かで出てくる。ここでいう「百名山」とは深田久弥氏の『日本百名山』を指すが、本多氏が指摘しているとおり、深田氏という一登山家が好きに選んで上梓したにすぎない山々を、さもブランドあるいは普遍化した価値のごとくありがたがっている傾向があるのはどうしたことだろう。NHK(公共放送休止中)でもそのテのシリーズが放映されており、本多氏が「馬鹿げた」と切り捨てている「早まわり」までが登場しているが(番組宣伝に遭遇した)、こんな他人のマネごとをありがたがる人々の主体性のなさにはヘキエキとさせられる(ラインホルト メスナー氏あたりに感想を訊ねてみたいものだ。*注)。
これが、たとえば「視聴者が選んだ百名山」というのであれば、なおコピーのニオイこそすれ共感できる部分があるに違いないが、それにしたって「深田? だれそれ?」という疑問すら浮かばずになんとなく番組をつけているひとが大勢派なのであろう(登山ではないけれど、どっかの坂道が名所になってしまい、「自分の殻を破る」ためにその他大勢の同好者とともに坂を登るだのという話もNHKの宣伝だかで目撃したが、「ウゲッ!」と胸クソ悪くなった。まぁ、他人に対し感動がどうのといった話ではなく、主役が「自分」のようだった点には共感できなくもないが、そんなモノでさえ「みんなが行くから」的に殺到するとはねぇ……)。
これは世界遺産詣でも同様で、なにかの折に書いたかもしれないが、「世界遺産だから」とか「世界遺産になったから」といった“きっかけ”でしかその現場に訪れないというあたりに主体性の貧困を感じてならないのだ(「しか」の部分に異論があるかもしれないが、煎じ詰めればコレもまた「みんなが行ってるみたいだから」に近いセンスなのであろう)。そんな風潮に嫌気がさしているということもあるが、自分自身は原稿類に「世界遺産」の文字を原則として使わない。「ジューシー」だの「旅の疲れ」などと同様の禁止用語なのである(一度、文中に編集サイドから加えられたことがあり、そのさいも編集担当に「コレ、取ってくれませんか?」と懇願したものだ。どうやら編集部側の事情もあったらしく、こちらもムリにゴリ押しするほど純粋な人間ではないし、“エラ”くなりたいとも思っていないので意向を飲んだワケだが)。
もちろん、世界遺産に登録された場所や物件にはぜひ訪れてみたいところや一見の価値があるところも多いとは思う(深田氏の「百名山」も同様だ)。だが、世界遺産なんぞという題目は、ユネスコという一機関が進めている施策にすぎず、物件そのものの価値を示すものでありはしない。しかも、そのタテマエは人寄せではなく保護や伝承にこそあるハズだ。それなのに実態はといえば“ブランド”だから、「みんなが行くから」と押し寄せるニンゲンたちと、それをおまんまのタネにしている観光業者という図式……(熱心に保護に取り組んでいる国や地域、物件もあるので念のため)。
本当は、そんな冠など関係なしに素晴らしいものは素晴らしいのだし、なんにせよそれを感じるのは自分自身にほかならないハズではないか。他人のつけた冠などクソ喰らえだ!
*注:メスナー語録的なものは数多いが、たとえばいま目についたところでは、雑誌「山と渓谷87年7・8月号」(山と渓谷社)に掲載されたインタビュー上で、メスナー氏がつぎのように語っている(訳:宮下啓三/原文数字は漢数字)。それにして、も。ちょうどこのテキストをつくっていたころにBSテレビでメスナーの映画が放映されていたとは(あとでプロフィール代わりにリンクをつくるときになって知った)、驚いてもしょうがないが驚いた。
「8000メートル峰全座に登ったからといって、画期的とは言えません。(中略)たしかにアルピニズムにおける目標のひとつとするに足る思いつきであったとはいえ、8000メートル峰に初めて登頂するとか、8000メートル峰への最初の単独登頂とか、ふたつの8000メートル峰の最初の縦走と比べて、重要性はすでになくなっています」
「1982年に私が全山登頂を思いついた当時、まだだれ一人として、8000メートル峰の全部に登頂しようなどと考えた者はいませんでした。ところが、ここ数年のうち、およそ1ダースほどの人たちが私を追い越すことを目標にかかげました」
「こんなスピード登山者のなかのだれか一人でも、単独でK2への新ルートを拓いたり(中略)であれば、そのために何カ月もかかったとしても、私にとっては価値が高いのです」
「いつだって私は着想によって生きてきたのです」(いずれも同誌7月号)
登山という世界の話だけではなく、広く示唆に富む発言だと思うのだが……。

さて、ここまで3回にわたり極私的流に“旅の本”を引き合いにして言いたいことを書きなぐってきたワケだが、「日本編」では純粋に旅の本の話をしてみたい。
筆頭に持ってきたのは『人、旅に暮らす』(足立倫行/現代教養文庫)。12編からなるルポルタージュ集で、月刊誌『旅』(日本交通公社──旅の文芸誌があった時代なのだ)に連載された足立氏のデビュー作である。
著者は、なによりも人間を描くノンフィクションライター。代表作である『日本海のイカ』(情報センター出版局)や『北里病院24時』(新潮社)、『アダルトな人びと』(講談社)、『イワナ棲む山里』(写真・秋月岩魚/世界文化社)など、いずれも人間の姿がいきいきと描き出されている。そのなかには、たとえば漫画家・水木しげる氏のような著名人に接近した作品がある一方で、市井で暮らす“ふつうの”ひとびとにまなざしを向けている傾向が強いようだ(水木氏の場合でも、対象が著名人だという点はあくまで付加的要素である)。
本作はどちらかといえば後者にあたるが、題材となった“旅人”たちの素性は多彩である。すなわち、スリ専門の警察官(が“ふつうの”といえるのかという見方もあるかもしれないが、足立氏によって明かされた素顔はなんら特殊ではない)であったり、ラブホテル専門のベッドメーカー社長であったり、国土地理院の測量官であったり……。知っているようないないような彼らの生業。そうして各地へと渡り歩く人間たち。これはつぎに挙げる『人、夢に暮らす』にも共通するが、そこに描き出されているのは、まさに現代ニッポンに生きる“ふつう”のひとびとなのである。それぞれがそれぞれに生業を持ち、真剣に日々をしのいでいるという点において。それが、足立氏の取材とペンとを通じて読者の好奇心を呼び覚ますのである。
たとえば、筆頭にある「バンクの渡り鳥」では競輪選手にスポットをあてているが、競輪という競技ないしギャンブルという存在は知っていても、関係者の舞台裏やそこでみせる素顔はということになるとにわかにはわかりづらいのではないだろうか。そこに密着し、“ふつうの”人間に迫る著者。選手とその家庭の暮らしの糧となる競輪選手という仕事。そこにあるのは誰彼とも変わらない日常のひとコマである。
レースを終え、カネを受け取る選手。
名前を呼ばれた。経理の女性がふっくらとした茶色の封筒を事務的に差し出し、小山はそれを事務的に受け取る。(中略)224回目の旅の成果だった。(28〜29ページ。原典は漢数字)
地に足をつけた、ふつうのさり気ない日常だ。

一方、本書『人、夢に暮らす』(新潮文庫)は前書の姉妹版といえるかもしれない。
20編の人間探訪であり、同時に旅が綴られている。驚くのはその興味の幅の広さだ。鷹匠、配膳、繍師、若き力士(最軽量力士「育盛」が引退したのを盟友Sが残念がっていたが)、都市鳥愛好家、北方領土とひとびと、元学徒兵、ドブ板通りの少女etc.。
職業でいえば、鷹匠などその存在は耳にしていても実態となるとベールに包まれていたり、天ぷら職人の修行や日常などにふと興味がそそられたりする。配膳というのも、なにしろそういう場に行く機会もなければ、本書によって知り得た職業ではあった。ほぼ唯一の著名人ということでは、あの畸人ギタリスト(断るのもヤボだがリスペクト言葉)寺内タケシ氏にも突撃しているが、その寺内氏を含め、職業や立場はさまざまではあるけれど、前作と同様に市井で暮らすふつうのひとびとだといえるだろう。
そして、その幅広い好奇心に支えられた視線。「あとがき」を寄稿した野田知佑氏によれば、「倫行にかかったら尻の穴まで何もかものぞかれるぞ」と氏の知人から「脅された」という。しかしそうだと「脅され」るほどに念入りな取材は、おそらくは取材される側にとっても心地のよさを伴っていたのではないだろうか。それだからこそ、こうした名著をなしえたハズだ。
ところで、足立氏からは氏の作品をめぐってあれこれお話を聞かせていただいたものだ。なかには、いまひとつ噛み合わなかった取材や題材といった生々しいエピソードも具体的に教えていただいたものだが、『アダルトな人びと』(講談社文庫)をめぐっての和やかなひとときはいま思い出してもケッサクであった。
同作はアダルトビデオ業界で生きるひとびとの視線をあてたノンフィクション。ありきたりな(?)AV女優列伝みたいな世界ではなく、監督を含めた裏方的なひとびとの仕事や日常が描き出されている。個人的に、作品はともかくそれをつくっているひとびとには興味があって、AV監督だったバクシーシ山下氏のエッセイ集(というのか?)などを面白く読んだりもしている。そんなこんなで本作は個人的にも好きな作品なのだが、なんど読み返してもV&Rプランニング(バクシーシ山下氏が所属したキワモノ系製作会社)のところでもっともペンが走っているように思えるのである。そこで、なにかの折にそんな話になったところ、逆に足立さんからすっとんきょうなことを訊かれて大笑い。
オレ「ライト柳田のところ、ありゃぁ最高ですよね」
足立「あいつ、いまどうしてるの!?」
い、いや、「どうしてるの」と訊かれても、そりゃこっちのセリフですよ、兄貴……。
ライト柳田ってのは、件の山下監督作品でレギュラー的存在だった特殊系AV男優。足立さんが本書の取材のおりに、高田馬場の食堂だかで遭遇したそうなのだが、前夜はボーリング場で過ごしたのはいいとして、持ち物を盗まれてそのとき無一文。十代後半から宿なし生活を続け、山下監督に出演の有無を電話確認するのがそのころの唯一の仕事だったというナイスガイなのだ。そのクセやたらに高そうなサイフや靴、輸入タバコを持っていたあたりは、特殊漫画家・根本敬氏いわくの“イイ顔”ないし“ダウナー系”そのまんま(という妙な部分に納得したりしたものだ)。
で、その消息だが、ちょうどその少し前にタマタマ“近況”めいたものにネットで遭遇していたので、足立さんにそのまま報告。
オレ「だれだかとどっかの飲み屋で飲んでたところ、『タバコを買ってくる』と言い残して表に行ったっきり行方不明だそうです」
足立「あっはははははは(ウレシそうに大爆笑)」
かように、先輩との対話は楽しいのであったо(^ヮ^)о

トリは『にんげんドキュメント 乗り物に生きる』(檀上完爾/現代旅行研究所)。雑誌「旅と鉄道」(鉄道ジャーナル社)に連載されたノンフィクションを編纂したもの。新幹線の運転士や食堂車スタッフ、航空自衛隊隊員、観光タクシードライバーなど“乗り物”を自由な感性で捉え、そこに生きるひとびとを追ったルポルタージュである。
本書の主役たちも足立氏の作品のひとびとと同様に、いわば市井で暮らすふつうのひとびとである。そこにある仕事への情熱。語られてゆくエピソードの数々は、それぞれがドラマであり、興味を誘う。モノを書くにあたって、人物に焦点をあてることの面白さが凝縮されているのだ。
この本、じつは著者の檀上氏からいただいた記念品。「旅と鉄道」の連載(といっても相当に古い話だが)を読んでいて、じつは密かなファンだったのである。そのころはいまとは異なる業界でサラリーマン生活をしていたが、まさか本の世界に飛び込むなどとは自分自身も想像しておらず、いわんや愛読していた作品の著者にお目にかかれるなどありえない話だったハズ(前項の足立さんも然り)。そんなだから人生は面白いというのは飛躍……か? しかしそのワリには精進がまったくもって足らない自分にいちおうの(?)反省しつつ、久々にこれらの愛読書たたちを取り出してみて、モノを書くということの基本をあらためてかみしめてみた次第。
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