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2014.09.28

こんな旅の本を読んでます(アメリカ編)...の巻


  アメリカ合州国というのは、日本や日本人との関わりあいが決して少なくはないと思うのだが、そのくせなにかとナゾに満ちた“くに”とはいえないだろうか。いわく「自由主義の総本山」であり、その理想をとなえた「アメリカンドリーム」。現代の消費文明を牽引し、それを叶えるためのツールの水源。続々と発信されるエンタテイメントを通じて提示されてきた暮らしぶりや文化。そしてスケール……。そんな彼方の国に、オレは子どものころには憧れを抱いてきたし、そういう日本人は少数派ではないハズ。現実に訪れたアメリカ合州国──これはもちろん無邪気な観光客としてだったが──は、陽気でフレンドリー。生まれ育った祖国と異なる文化やセンス。刺激的だった。ロサンゼルスの街を歩きながら、「こんな街に暮らすのも悪くない」と思ったほどであった。

  だが、己の持ち時間が過ぎてゆくとともに、その素顔に影の部分が浮かんでいることに気づく。それも素顔そのものを圧倒しているのが、それらの陰影だったのだ。そのさいたるものが、いわゆる“戦後”という概念を建国以来これまで持ってこなかった戦争国家という実態であり、史上最兇の軍事力と突出した経済力にあかした奢りである。「人種(および民族)のるつぼ」といわれながらも、日本人にとっては誤解を招きかねない“飛躍的訳”である「合衆国」とは裏腹に顕在するいわれなき差別も窺えてくる。
  しかし、そうした陰影を含めてあの“くに”に惹きつけられていることは否定できない。憧憬と反発というのはあまりにも単純化しすぎているけれど……。

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  リスペクトする畸人・藤原新也氏によるアメリカ探訪記『アメリカ』(集英社文庫)は、そんなとりとめのない心情をくすぐった作品だ。

  内容は簡潔。モーターホームを駆って、アメリカ合州国の西海岸を皮切りにひとり周遊したそのルポルタージュである。
  ある種孤独な旅のなか、旅人の心境にさまざまな思いが去来する。それは通りすがりのアメリカ人が見せたふとした仕種であったり、画一的にコピーされたような貌を持つ街であったり、ちょっとした事件であったり、沙漠のなかを延々と続く道そのものであったり、そんな大地のまっただ中で暮らす人間の姿だったりする。そして人種・民族差別と底意地の悪いそのセンスとの遭遇……。そんなもろもろに対し正面から自我をぶつけている(というのが適当な言い方かどうか……)あたりはいかにも著者らしい感じたが、しかしそれがあの国の日常なのかもしれない。

  話は飛ぶが……。近ごろ、たとえば韓国旅行のさなかに“日本人だから”と思しき差別を受け、あるいは「イヤな思い」をさせられた。だからあの国はダメだなどという話が生ゴミにたかるハエのごとく流布されている。それはそれぞれまったくのウソではないに違いないが(同時に「特殊を一般化」しているきらいもある。ある種のクズ紙の得意とするところだろう)、そういう人たちは自国やそのほかの国におけるそのテのできごとについてまったく体験(見聞)したことがないのだろうかとも思う。
  むしろそれよりも深刻なのは、韓国や中国における“日本人差別”と欧米(日本や韓国にも顕在するが)における人種・民族差別とはまったく異質なものであり、そこを理解できているのかというところである。周辺国でイヤな思いをさせられた?  アタマにきたのなら、自分に非がないのなら思いきり言い返してやればいい。十全な“心がけ”なしには無益な返り打ちに遭うだけだろうが、言い返す権利はあるハズだ。

  ついでながら、世界中で撮影を続けている知人の写真家H氏によれば「世界中に“親米国”なんかほとんどありゃしないよ!  徹底的に嫌われているぜ」という。ひょっとすると、“嫌米”国では韓国や中国における対日本のそれに近い米人差別があるのだろうか。とはいえ、繰り返すけれど“反日感情”がのべつまくなしに涌いているワケではないので念のため(そもそも、俗にいう類の“反日感情”にいちいち遭遇するようだったら、わざわざ好き好んでまで韓国通いなんかしませんよ、オレだって)。


  話を戻して、本書でいまひとつ面白いと思ったのは、食に関する考察である。このあと触れる『新・アメリカ合州国』(本多勝一/朝日文庫)でも異なる視点でアメリカ合州国における外食産業について言及されているが、本多氏が(あえて?)ルポで踏み込まなかった領域について藤原氏がある見方を示していて興味深い。ハンバーガー、ホットドッグ、コカコーラ。そして食堂をめぐるセンスと習慣。フラットな旅だからこそ見えてくる外国の姿なのかもしれない。ン〜〜〜、ダイナマイト!!

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  本書『アメリカ合州国』(本多勝一/朝日文庫)は、もはや古典の領域に入ったかもしれないが、センセーショナルな内容はいまなお色褪せているとは思えない。藤原氏の『アメリカ』とは異なり、ここではアメリカにおける黒人社会や先住民族社会を中心に視線が向けられているが、旅のルポルタージュとしても十二分に読みごたえがある1冊だ(センセーショナルとは事実のことであって、「センセーショナルに描く」というのとは異なる。本多氏の筆致はあくまで淡々としている)。

  本多氏がアメリカ合州国に滞在したのは1969年。およそ半年間の取材旅行だったという。ニューヨークのハーレムにアパートを確保し、さらにミシシッピなどいわゆる深南部へと黒人カメラマンとともに足を延ばす。そのさなかに遭遇した人種・民族差別の数々。食堂における底意地の悪いヒソヒソ話や攻撃、来訪者の顔を見るなり「空室あり」が突如「満室」になるモーテル。正統な根拠なきパトカーによる検挙(イヤガラセ)。そして実弾による銃撃(暗殺未遂)……。本多氏自身が「あとがき」で記しているように、映画「イージーライダー」さながらの命がけの旅が窺えてくる。
  このルポが新聞に掲載されたさい、内容の事実を疑う声や「偏向」だのといった反応が寄せられたと同じ「あとがき」に記されているが、当時をしてそれほどのインパクトを日本社会(読者)に与えたということなのだろうか。事実を疑った人にとってのアメリカ像とは、はたしてどのようなものなのか……。

  アメリカ合州国南部。知人K氏は、アメリカ合州国の全州を廻った経験を持ち、ハワイ島に別荘を構えるほどの“アメリカ通”だが、なにかのツアー(アメリカの船会社主催のクルージングだったと記憶)にご夫妻で参加したさい、ミシシッピだかフロリダだかでガイドに注意を受けたという。
「Kさん、アナタたちは夜の街には出ないほうがいい。なぜかわかるか?  それはユーが日本人だからだ」(「日本人」ではなく「オルエンタル=東洋人」と言ったかもしれない。なにぶん10年以上前に聞いた話である)

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  本多氏は2001年にもアメリカ合州国を再訪し、“その後”を報告している。著者自身が記しているように、最初のルポと比べるとインパクトはやや大人しいきらいがあるものの、人種・民族差別をめぐる変化が、限られた範囲でとはいえ克明に綴られていて読みごたえがある(前作同様に、先住民に関する章はあまりに痛々しく読むのが辛いが……)。
  差別問題についていえば、明らかな前進がみられたらしい。だが、つぎの考察──。


  よくアメリカの「復元力」とか「ゆり戻し」「立ち直り」とかが、よい意味で語られることがある。(中略)実は、合州国の「復元力」も「ゆり戻し」も、反対の悪い意味でのこそ本質ではないのか。
(同書220ページ)
  たとえばチョムスキーとかガルブレイスとか、その他の非常に立派なアメリカ人がいるんだけど、決してそれが主流にならない。主流はブッシュみたいな奴であってね。(中略)「逆の揺り戻し」じゃないのか、主流はワシントンとかブッシュであって揺り戻して元の悪い方に戻っちゃう。
(280〜281ページ)

  これは、どうもわが国に対しても指摘していいかもしれないが、そんな「逆の揺り戻し」を支えているのはあくまで“善良”なひとびとである。それがなんともおそろしい。

  本書の巻末には複数の対談が掲載されているが、そのなかにつぎの証言がある。

「僕はニューヨーク市で品物を店で売ってもらえなかった経験があります。(中略)タイムズ=スクウェアあたりだと、日本人に対してもかなり非友好的な態度で接する店がありました
(223〜224ページ。丸子王児氏=ニューヨーク在住)」

  あるいは、これは友人の作曲家・デラTの話だが、「(スタジオなどで)日本人のクセにこんなことできるのかよ?  みたいな態度はあるね」。
  もちろん、こんなのばかりではないこともいちおうつけ加えておくし、理念ではなく“ガチンコ”の対立があるからこその理解もあるのではないかとも想像するワケだが、少なくとも自分自身はそんな差別する側のようなみっともないマネはしたくない。人種や民族、国籍を問わず、友人がたくさんいるっていうのはいいことじゃないかと、珍しくキレイゴトを並べてみよう。

  なんだか「旅」の話からあさっての方向に飛んでしまったが、飛んだついでに、藤原新也氏の名作『東京漂流』(朝日文庫)でドキリとさせられたくだりを以下に引用してみよう。


  その旅(引用者注:藤原氏のアジア放浪)がいったい私にとって何だったか、それをいくばくとも明白にするいくつかの符号がここにある。それは私が最初にインドへ旅立ったのちに、日本で起こった政治活動家たちによる一連の国外脱出事件である。つまり、北朝鮮への田宮高麿らの(中略)。私は彼らが日本逃亡を企てたその感性を、痛いほどわかった。
  同時代に生きた田宮高麿や重信房子らの出国が、私の旅と基本的に同じ根を持っていないほうが、むしろ不自然であるともいえる。(中略)
  国、私の母胎が崩壊してゆくという危機意識は(中略)取り返しのつかない大きな命題として、当時の日本青年の前に立ち塞がったのだ。
(同書61・62ページ)

  祖国に愛着を持つがゆえにその感性や行動が“逃亡”や“脱出”へと収斂してゆくこともありうるのではないか?  そしてそれは、けっして他人事ではないような気もする。引用部分につづいて、「日本国籍を持ったまま外地に永住してしまったという例を、いくらもこの目で見た」と著者は伝えているが(著者自身は、その直後に「自分が一個の日本人であることへの愛おしさをさえ感じる」と綴っている。同感)、日本国籍を棄て祖国に暮らすという考えはどうなんだろうともふと想像した。

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