「北の国から」への疑念・・・の巻
ドラマ「北の国から」(フジテレビ)は、脚本家の倉本聰氏がてがけた作品のなかでもとりわけすばらしい内容で、最初のシリーズ(1982年)当時から好んでみたテレビ番組である。あまりにも知られた作品なので、内容については語る必要もないだろう。富良野(北海道)を舞台とした人間ドラマで、主人公の子どもふたりの成長を現実の役者の姿とオーバーラップさせながらリアルタイムで追跡するかのような要素があり、スリリングな面白さもあった。後半、やや生臭さが鼻につく部分がなくもなかったが、シリーズの最後まで十分に楽しませてもらったものである(なんどか感動して涙すらでてきた)。
自然の描き方もよかった。たとえば、シリーズ中で猛吹雪のシーンがいくつかあった。雪の風景は大好きなもののひとつだ。青みがかった闇。人里のかすかな灯りが、吹雪きのなかににじむ。ときには理不尽ですらある北国の自然と人里の暖かさとの対比の描き方がうまいと思った。「北の国から」のそうしたシーンを見ていて、「ああ、倉本聰という人は、本当に北海道のひとびとや自然を愛しているんだなァ」としみじみ思ったものである。
その倉本氏が、ライブドアによるニッポン放送買収に際して、ライブドア支配ならば同放送局の番組を降りることを検討しているという。詳報が伝わってこないので、氏の真意がさっぱりみえてこないのだが、同じく降番や出演拒否を示唆したとされるタモリ氏や江本孟紀氏らには感じない違和感を覚えた。
倉本氏といえば、手がけた作品から伝わってくるのが、リベラルで進歩的なニオイであり、氏ご自身も人間や自然を愛する頑固な人物のように思える。あるいはその頑固さが、堀江貴文氏という“あんちゃん”が持つ手段や思想を拒否したのかもしれない。カネまみれの堀江氏と「北の国から」の世界には相反するものがあるようにもみえる。だが、だとすれば倉本氏はなぜフジテレビとかくも長き蜜月を過ごしてきたのかという疑問が湧いてくるのだ。フジテレビ(フジサンケイグループ)という企業体が持つ社会的スタンスについては論じるまでもない。キャッチコピー「楽しくなければテレビじゃない」に象徴される“俗”な番組づくり(フジに限ったことでもないし、フジテレビ流楽しい番組もいいと思うが)の旗手であり、完璧に体制に迎合したメディアであり、ようはカネモウケに夢中で、ジャーナリズム的な発想・思想をちっとも備えていないようにみえる堀江氏のような人物にこそお似合いのマスメディアである。そんなフジテレビと長年連れ添ってきた人物が、フジにこそ似つかわしいと思われるライブドアを拒否する理由はなんなのか? ──そんなことを考えていたら、そもそもが倉本氏に対して自分が抱いていたイメージこそが間違いであり、倉本氏とはかくたるごとしの人物であり、代表作「北の国から」は、ひとの営みや大自然を描いているようにみえながらそれは錯覚にすぎず、芸術性やドラマ性ともほど遠い、単なるビジネスの材料にすぎなかったのではないか、そういう気がしてきた。まぁ、もともとがニッポン放送出身だからライブドアを拒否するというていどの問題なのかもしれないけれど、それでも場合によっては、「倉本聰という人は、本当に北海道のひとびとや自然を愛しているんだ」という感想を撤回しなければならないかもしれない。しらけさせられる。
*この記事の続きはアトリエ猫池・日々是雑感の4月第1週にアップしております。お立ち寄りいただければ幸いです。
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